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だからオマエ考えすぎなんだよ

そう言われた経験のある人にはわかる、そう言われたことのない人にはわからない、そういう心持ちがある。

考えすぎというのは、昔の人の言い回しでいえば「杞憂」というのがそれに相当する。杞憂とは「無用の心配をする。とりこし苦労」。考えすぎ、というのを違う切り口から見ると「下手の考え休むに似たり」であろうか。

いつまでもぐずぐず考えていないで、さっさとものごとを決めなさい。

「オマエ考えすぎなんだよ」という側の理屈は、たいていそういうことになる。



わたしは小さい頃「考えすぎだ」と言われ続けてきた記憶がある。実際に言われ「続けた」ことはないのかもしれないが、自分がひとり時間を使って考えることが悪いこと、怠惰の代名詞のように扱われた印象がある。

実際にわたしの行動が遅くて周りがイライラしていたのかもしれない。周りとの時間の流れ方が違ったのかもしれない。それはそれとして、自分の思考の流れを中断され、それが悪いことのように取り扱われると、人はどうしていいのかわからなくなる。我が身のなかの方位磁針を失ったように感じ、そういう虚ろな内面を構築するよう外側から「矯正」されることで、どう反論していいかわからない歪みが知らないうちに溜まっていったように思う。


考えすぎ、というのは「既に見えている主要な判断材料と、考慮にいれなくてもよい部分との区別がつかず、同じ重みでものごとを考えてしまう」ことである。言い換えると、判断するにあたり考慮すべき物事の優先順位がつけられていないのである。

何をどう判断していいかそもそも自分が理解できていない、という状態もあり得る。自分が判断すべき物事自体を理解できていないのであれば、考えすぎなのではなくて、考える前にやるべきことがある。それを「考えすぎだからさっさとやれ」というのは順序が違っていて、その結果はきっと目も当てられない。

ものごとの重み付けができていないのなら、それぞれのものごとをまず理解することが必要になる。あるいは、ものごとがわかっているのであれば単純に腹が据わってないだけなのかもしれない。

一例をあげてみる。「晩ごはんはカレーかシチューか」と問われているところで、スパゲティやうどんのことをどうして考えないんだろう、そういえばやきそばやカツ丼も話題に上がってないけれど、いいのだろうか。いや、昼はうどん食うたやないか、それはあかん。となると、カレーうどんはないけど、カレーライスはありやな、でもバターチキンカレーにするとかキーマカレーとかグリーンカレーとか、そのへんは何にすんねんな。カレー言われても何カレーやねん。……うわっ、シチューもいっしょやん。ハウスのアレ? ホワイトシチューでええのか、お高いお肉とか勝手に買うてブラウンシチューとかどうなんや、いや、コーンクリームとかおいしいやんけ、トマトとか入ったらアレはシチューと言うてええのか……。

そうして頭の中がぐるぐるしているうちに「カレーかシチューかも決められないなんて、優柔不断めが!」と呆れられてしまうのである。

ここで引き下がるものかと思い「いや違うのだ、実はわたしはこう考えていてだね……」と先に記載した事項を噛んで含めるよう聞かせてやろうとでもしたら、5秒で「あーはいはい考えすぎ、はい、おわり。今日はカレーです」となるのだ。なんちゅうこっちゃ。そんなんやったら最初から聞くなや。そんで何カレーやねん。


そうじゃないのです。考えているんですよ、一所懸命に。わかっていただけないですかね。それなのに「そんなことまで聞いてない」とか「考えすぎ」とか言われたら、もうどうしたらええのかわからないのです。どうしたらええのかわからないから、どうしたらええのかを考える。あっ、また考えてる。気づいたらそうなっている。そして「考えすぎ」と揶揄される。

一言言わせてもらうけどね、あんたらが考えてへんだけやで。わたしはそう言いたかった。

そういうことである。