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読んだ本の感想をnoteに書いてみませんか?


そうやって、noteの記事欄にデフォルトで入っている文字をなぞってみた。




noteでは頭の整理ができればいいな、と思っていた。それ以上のことはそんなに考えていない。少ないよりはたくさんの人に読まれる方がいいけれども、たくさんの人となると顔がわからない。そういうのは嫌だなと思う。たくさんの人が来るようになると、ある一定の割合で「この人はいったいどうしたんだろう?」という人が混じる。そういうめんどくさいのは嫌だ。その結果、たぶん今に至る。今に至った。

わたしの書くものの何がおもしろいのかと自分では思うけれども、読み返してみるとたまに「意外とおもろいやんけ、自分どないしたん。腕あげたな」と思うものもある。そういうものはたいてい自分ひとりで考えついたものではなく、外からきっかけをいただいたものである。

noteで交流のできた方とお会いすることがある。垣根がないところがよい。どなたとお会いするにしても「えー、まずは先生のご略歴を。先生は、屈折小学校および中学校をご卒業後、質実高校へ進まれ、幽玄大学にて、割引シールと心拍数の相関メカニズムに関し論文を発表されました。その後、秘密結社において悪の組織に関する考察に従事しておられ、本日お越しいただいた、と、手短ではありますが、こういうわけでございます」という紹介がない。まったくない。まったくないどころか、わたしは先生ではない。教員免許は持っていないし、先生と呼ばれるような資格や肩書きは絶無である。飲み会で「イヨッ、センセー!」などと言われるのがせいぜいである。それすら言われたことがない。

まったく話が脱線したのであるが、noteで交流のできた方とお会いすることがある。垣根がないところがよい。大事なことは2回言うのである。

社会的な立ち位置とは関係なく「やあ、こんにちは」と言えるのが心地よいのである。ありがたいことである。わたしはフォロワー数n人達成!とか、投稿連続n日継続!とか、そういうことにあまり価値が見出せないのであって、なぜならばその数字が何を意味するかがよくわからないからである。数が大きければよいかというと別にそうとも思えないのである。

週刊文春アトキンスとが同じ部数売れるわけでもなく、だからといってたくさん売る方が偉いかというと、ちょっと違う気がする。数というのはその程度の指標である。もちろん月に10万円稼ぐのと100万円稼ぐのなら100万円稼ぐ方がたぶんすごいんだろうけれども、こういう時に数字だからといって急に金銭の話をしだすのは大抵面倒な人である。数字が大きい方がええいうて断言すんねやったら、5%のビールやのうて99%の工業用エタノール飲んだらええやろがぇ。いっぺん飲ましたろか(ダメ、絶対)。

こうやってまったく話が脱線して前へ進まないのであるが、つまり社会的なしがらみと違った関係で楽しくできるのが心地よいのである。そして、それぞれの方にはわたしとはまったく違う能力があって、いつだか書いたのだけれど、皆さんが創作するのは音楽や言葉をつかった形のないものから、色や形を持つ手触り感のあるものまで、本当にさまざまな作品なのであった。

何を書こうとしていたのか、もう忘れてしまったのであるが、今思いつくことをちょいと書いてみるならば、わたしはそもそもnoteであれこれやりたいとは思っておらず、ちょっと頭の整理をするために文章でもこさえてみるか、あははん、という程度でうっかり始めたのである。つまりはメン募(バンドか!)などやったこともなくやるつもりもなく、ちょっと遠くから「みんなおもしろいことやってんなぁ」と眺めているくらいがちょうどよかろう、と思っていたのである。まさか現実に誰かとお会いするとは思っていなかったし、他の方と一緒になって創作をやったり、ものごとを進めようとしたりするなんて、想像もつかなかったのである。


「将来何になりたいの?」と言われて答えに窮した子供の頃を思い出した。将来何になりたいかなんて、どうでもいいのだ。人とタイミングがその人をその人らしいところへ連れていってくれるのだ。だってnoteを始めて3年後の姿すら想像つかないのである。このめんどくさがりのわたしは、どうやら言葉で何やら書き留めるのは嫌いじゃないらしい。


支離滅裂に書き散らかして何を言いたいのかよくわからない。言いたいことはそんなにない。そういえば、大事なことを2回言うていた。次言うたら3回目か。めっちゃ大事やな。つまりこういうことである。

noteで交流のできた方とお会いすることがある。垣根がないところがよい。

それはつまり、その人に流れている空気がよいのだ。そういうことである。