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intermission

生存確認。

しばらくテキトーに過ごしております。今後しばらく、テキトーに過ごします。現実世界にかなりの労力を割かねばならない状況がいつまで続くか、みなさまのところへおじゃまするのも少々控えます。

戻るべき時期には戻ります。


それだけでは愛想ないので、与太話。



上巻の半ばまできた。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド。


ものがたりに飲み込まれまいと抵抗する自分がいる。昔「ノルウェイの森」を読んだ時の感覚に似ている。書き手の力量に振り回されまいとしている。それはすでに振り回されている状態なのだけれど、素直に物語の引力に身を任せようとせず、一歩引いた視点を持ち続けようとしている。

ここで世界は終り、もうどこへもいかん。だからあんたももうどこにいけんのだよ。

細部を丁寧に描写する手腕はやはり一流。食事、調度、音楽について。そういう現実的な手触りのあることがらを丁寧に書き込んでいくことで、現実的では無い深淵へ降りて行こうとしてるように思える。200頁を過ぎて、わたしにとってこのものがたりはまだ導入のように思える。これから、この文章はどこへ連れて行ってくれるのか。

世間にある"書評"とされるもののほとんどはこのものがたりの感想文であった。一方で人文学の論文もあるが、これは他の作品との対比からこの作品の位置付けを浮かび上がらせようとするもので、これも書評とは異なる。



ひとは良質のものがたりをたくさん浴びる必要がある。
それが生きる時間を豊かにするように思う。

たとえば、えほんを描くのはかんたんそうにみえて、その一方で誰もが絵本作家として名を残せないのにはきっとわけがある。その分かれ道はおそらく、そこに良質のものがたりがあるかどうか、にある。

本の中で語られる日本語の羅列を切り刻んでみても本質は見えない。

目に見える、あるいは手に取れる形として、ものがたりの核心があるのではなくそれは、心に届くなにか得体の知れない、しかし良質なものなのだと思う。
そこに感じられるものがたりの核心が、読み手の心に触れるのである。読むことで心に変化がおき、それを読むまでは思ってもみなかったことをしゃべりたくなる、伝えたくなる、それがものがたりの効果ではないか。

そして、それが心に触れたかどうか、すぐにはわからないこともある。ずっと後になってから、記憶の引き出しが開いて「そういうことだったのか」と思うのかもしれない。


何か行動を起こすとすぐに結果を求めるのは人間の性分だけれども、それとは別のときの流れがあって、ものがたりはその流れに乗ることもあるだろう。

ものがたりとはお金のようなもので、それに触れる人のタイミングや心持ちによって、見え方が変わるものでもある。触れる側の主観によって、良いものがそうでないように見える時もある。自分の理解できる範囲でしかものごとを理解できない、素養のない分野のことは皆目見当がつかない、ということもある。みる目を養う、というのは言葉を変えると審美眼とも言えそうだけれども、これは美をつまびらかにみる目、である。

美、美しい、というのはいったい何かというと、橋本治の言葉を借りれば以下のようになる。

それは、ただ「存在している」と見える。そして、利害とは関係なく「ただ存在しているだけのもの」を見た時、人は「美しい」と感じる ー そうである方向へ進んでいく。

橋本治 人はなぜ「美しい」がわかるのか

これをつまびらかにみる。
あるものをあるとみとめ、それを丁寧にみていく。丁寧にみるためには素養や訓練が必要な場合もある。直観的にそれとわかる場合もある。そして、それを理解するには視覚が必要か、というと必ずしもそうではない。たとえば音楽は聴覚で感じる、あるいは音波の振動を体感するもので、それを美しいと感じることがある。この感覚は視覚とは必ずしも結びつかない。

審美眼とはそういうもので、これを理解して整理するための道具として、ひとは自然言語を使う。どうせ使うのであれば、その言語の特性を知り、色合いを知り、肌触りを知り、響きを知り、これまでの使われ方を知り、組合せを知り、少しずつ自分のものとしたほうがよい。



与太話はさておき本題ですが、涼しくなりましたね。もう少し休憩します。じゃそゆことで。