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天理教青年会の活動3

天理教青年会は、天理教を信仰する青年たちが自分たちの力でこの道をもっと広く世界へ伝えたいという熱意と、この道を深く求め成人したいという情熱が一つに結集し、大正7年(1918年)10月25日に誕生しました。

青年会活動を通して会員一人ひとりが「陽気ぐらし」の天理教の教えを日々実践し、確かな信仰信念を培うことを目指します。また、その信仰の喜びを胸から胸へと周りに伝え、人たすけに取り組んでいきます。

https://www.tenrikyo-seinenkai.jp/seinenkai/

三刀流 -トリプルな立場-

平成20年(2008年)、天理教青年会は創立90周年を迎えた。
私は当時、直属委員長&教区委員長の二刀流で活動していた。加えて平成19年には、青年会本部19期委員会(飯降委員会)の委員に任命され、三刀流になっていた。青年会長は現真柱様の時代。会長様から「いっけん、いっけん」とお呼び頂き育てられ可愛がられたかけがえのない3年間。

今考えても、この時期がダントツで一番多忙だったが、一番やりがいを感じ充実していた。19期委員会の使命は、創立90周年を軸とした活動を展開することと記念総会開催だった。

19期始動の頃の会食で、飯降委員長にふと尋ねたことがあった。
「自分は直属と教区のW委員長だけど、本会では地域活動部に配属されたから、やっぱり“愛媛の藤田”として本会に呼んでくれたんですか?」て。

私の中では、タテ(直属)があってこそのヨコ(教区)という価値観があり、具体的には教区に対して100の注力なら、直属に対しては200の注力だ。教区に1回運んだら直属には2回運ぶ。タテの活動無くしてヨコは無い。そんな信仰的価値観を持っていた。
だから、飯降委員長からは「いや、“繁藤の藤田”として呼んだ」という答えを望んだ。
はたして飯降委員長の答えは、いつもの笑顔ではなく、真面目な顔で「“藤田一憲”として呼んだ」であった。

私は震えた。そして、たった3年間の任期だけど飯降委員長を男(漢)にするんだ!と奮起した。

本会の委員会

毎月4回の委員会。そのほとんど全てに会長様はお出まし下さった。一つ一つの活動や行事に何時間も何時間も練り合う。あまり詳しくは書かないが、本当に何時間も何時間も練り合う。会長様は、ずっとお付き合い下さる。昼食の時間も私たちと同じものを同じ席で召し上がる。
委員会中とは打って変わって、昼食時はバカバカしい話しや野球の話しやいろんな話しで盛り上がる。

委員会の日には、私のように地方からおぢばがえりして来て出席する委員達が多数いた。28名中24名が本部員や大教会長子弟なので、寝床が確保されているが、残り4名、つまり地方の分教会子弟は詰所の一室が寝床。委員会は時間制限ナシ。つまり、夜遅くに詰所に帰っても食事はないし風呂もない。
26日前後なら一般の帰参者もいらっしゃるから詰所も深夜対応なのだか、毎月4回の委員会のうちの2回は月中の12日と13日だった。部会やチーム会があるから毎月10日にはおぢばへ向かう。お金がないから下道で約9時間。しかもウチの祭典日は10日。そう、酷い時は、祭典の座りづとめを終えるや車に乗り込みおぢばに向かう時もザラにあった。だけど当時会長であった父親は「おぢばの御用第一だ、行ってこい」といつも笑顔で送り出してくれた。

月中の委員会の晩は、詰所に帰ってもお風呂時間は終わっているので、よく百母屋で入浴したなぁ。そして、本会食堂で“500円会”という名の会食を毎月やった。会計係の委員に500円を託し、集まった資金で夕食を手作りしてくれた。夕づとめを終えた会長様もお越し下さる、時に銘酒を携えて。
もうね、私のような一般ピーポーには夢のような時間ですよ。ここでは決して書けない醜態もあったなぁ、、、。だけど会長様はいつも大笑いして喜んで下さってたなぁ。
こんな裏話、何時間でも語ることができますがやめときますね。

創立90周年

さて、創立90周年の年は、「天理青年一手一つ躍進の集い」を地球各地で開催し、その中間時期の10/27には「創立90周年記念第84回総会」があった。

筆舌に尽くし難いほどの慌ただしい動き。「躍進の集い」は各地域を会場に開催。愛媛委員長の私は、会場運営の責任者。繁藤委員長の私は、会員さん達にそれぞれが住まう地域の会場に参加してもらえるよう働きかける動員の責任者。本会委員の私は、担当する会場との多岐にわたる相談や運営に関するやり取り。コロンビア会場も私の担当だった。
極め付けは、10/27の「記念総会」の式典司会という大役を仰せつかった。
倒れそうになりながらも(実際に一度倒れたが)懸命に活動に取り組んだ。いろんな会場に出向し、いろんな方々と意見交換し交流した。中でもコロンビア会場はとても刺激のある出向だった。(コロンビアの思い出だけでもヒト記事出来そうですよ、またいつの日にか)

天理青年一手一つ躍進の集い

そもそも、この「躍進の集い」は、ムキムキな名称もガッツリな中身も、18期久保委員会で計画されたもので、それを19期が引き継いだ。この行事はいろんな面で苦慮した。

“天理青年”と“あらきとうりよう”はその意味においてどう違うのか?この議論はいろんなところで起こったが、本会委員会でもモチロン紛糾した。何時間も何時間も議論した。
会場運営はヨコで、タテは動員、という雰囲気が出来上がり(これは本会の立場的には不本意な状況だった)、ヨコは会員に手を出すな!的な極論まで出た。ヨコはHCで会員をもっと掘り起こせ!タテは何やってんだ、会員回りをやっているのか!ヨコは名簿の取り扱いに気をつけろ!タテは責任を持って会員をお連れしろ!などと、一時的ではあるが、一手一つとは程遠い状況にもなった。
ほぼ毎月25日に本会で教区委員長会議を持ったが、現場のストレスをこの場にぶつけてくる、けっこう修羅場会議だった。言いたいことを言う教区委員長さんには個別に対応するのがやっとだった。「ボクもイチ教区委員長として、アナタの言ってることはよくわかるよ」て。

みんな「躍進の集い」を成功させようとガムシャラだったんよね。
我が愛媛会場は「躍進の集い」を第1部とし、第2部は記念講演として元checkersの高杢禎彦さんをお呼びした。高杢さんに動員を頼りたい、そんな下心はなかったが、結果として大盛況だった。当日夜に、委員会メンバーと高杢さんとの宴席はサイコーだったなぁ。
繁藤に繋がる会員さんも各地の会場に出かけてくださって嬉しかった。一緒に行こう、と会員の元まで出かけて行って共に参加したことも良い思い出だった。

「躍進の集い」の開催期間は約半年。本会では随時参加会員数を集計していた。思ったよりも参加数が伸びない。飯降委員長が目を真っ赤にして「こんなんでいいのかっ!」と珍しく語気を荒げた。ちょうど同じ時期に大阪教区が一番力を入れていた会場が開催されたが、空席の目立つ、盛り上がりに欠ける結果となった。当時の大阪教区宮田委員長は危機感をあらわにし、本会例会日にみんなの前でマイクを手にして「こんなんでいいのかっ!」と声を大にして訴えた。
直属も教区も只管に動員に動いた。
季節は秋に移った。

10月27日 創立90周年記念総会


そんな流れの中での10/27「記念総会」開催。
式典司会を仰せつかっている私は、あまりにも緊張と心労で当月中頃にちょっと寝込んだ。
父親が「そんなんでどうする、元気出せ」と鼓舞してくれた。そうやな、こんな機会はもうない。頑張ろ!と大教会秋季大祭を終えるやおぢばに向かった。

総会当日。晴天。心も晴天。
北礼拝場基壇に設置された司会台。インカムをつけると至る所に配置されたメンバーの声が飛び交っている。
総会だ!!
各分会の旗を先頭に東西から会員たちがどんどん中庭に集結してくる。スゴイ雰囲気だ。
司会アナウンスを始めるが、緊張が止まらない。もう吐きそう。

遠くを見つめた。西回廊の遥か向こうに、乾隅棟の甍が見えた。秋空にキラキラと輝いていた。視線を近くに戻す。正面でおやさまが見守っていてくれてる(ように感じた)。
心が落ち着いた。

教祖殿の真ん前のパイプ椅子から、繁藤分会の仲間と父親が笑顔で手を振る姿が見えた。
笑えてきた。なんだかホッコリした。
みんなと一緒に座れず、こんなカッコいい場所から見下ろしてごめんねー。
実は、総会式典司会のことは、両親と私の所属する分会の委員長にしか告げてなかった。他のみんな驚いてるだろうな。
さっきからポケットの携帯電話のバイブがブルブルブルブル鳴りっぱなしだ。すでに私は基壇の司会台に立っているし、電話には出られないけど、用件は分かっている。「おい!司会かっ!」「よっ!司会!」「顔が引き攣ってんで!」「セリフかむなよー」て。
みんなありがとう。

青年会長様はじめご臨席の方々の入場。
式典が始まった。よし、順調だ!1番の難関である“よろづよ八首奉唱”もクリア。力強くあらきとうりよう指針唱和。そして青年会歌斉唱。
中庭最前列の飯降委員長が歌いながら顔がくしゃくしゃだ。感涙している。私も涙が出てきた。こんな感動はもうない。
青年会長様とご臨席の方々がお下がりになった。無事に式典が終了した。

式典チームのチーフである島村さん(現高知大教会長)が満面の笑みで基壇階段を駆け上がってきて「やったーーー‼️」と労いの握手🤝
元高知部属の繁藤の私にとっては勿体無いやら有難いやら嬉しいやら。
もうね、その日の晩の直会は、開放感と達成感からシコタマ呑んで覚えてないよ。
翌朝の御礼づとめ、二日酔いながらも気持ちよく勤めて、「躍進の集い」後半戦への誓いを新たにした。

その年の暮れ、納めの委員会を終えてみんなそれぞれの教会に帰った。本会でも、総務と庶務部長と勤務の係員が御用納をし、神殿にお礼のおつとめにいったとのこと。
その時、飯降委員長が中庭で俄かに倒れた、という連絡が入った。
90周年の年を無事に勤め終えた安堵と心労だろうか。
「記念総会」は滞りなく勤め終えたが「躍進の集い」へ会員5万人の動員は達成できなかった。

突然の委員長交代

年が明けた本会初委員会。
私は、“動員5万人”に届かなかったことが心のどこかに引っ掛かっていた。それは自分会でも同じだ。定めた動員数には届いていない。
みんなで分析した。見えてきた要因の一つに、部属分会委員長に“活動の熱”が伝わり切らなかった、その結果、ガムシャラに動員に動いたメンバーが限られていて、しかも、少数だったということ。
活動の輪を広げるためには部属分会委員長がその気になって会員に直接的に接する働きは欠かせない。
これは、教区青年会における支部青年会委員長にも言えることだ。

そこで、様々な議論の末に、本会委員会では「部属分会委員長練成会(部委練)」を立ち上げた。全ての直属分会を会場に、全ての部属分会委員長を対象にしたガッツリ且つムキムキの錬成会だ。各直属委員長さん達も、部委練で更なる会活動の充実を図りたいと乗っかってくれた。
これにより、部属分会委員長更迭の動きが各直属分会内で加速度的に起こってきた。
そして、私もその煽りを喰らった。

部委練の開催期間は半年近くに及んだ。その開催期間中、なんと、大教会長様から、直属分会委員長交代の話しが舞い込んできた。
「え!?いま!?」
いま!?というのは、まだ本会委員の任期が残っていて、しかも部委練の出向がまだ残っていた時期だったという、いま!?だった。
飯降委員長に相談した。「んんん〜、、、会長様にお尋ねするわ」
案件になってしまった。
後日「交代してもよい」との決裁。

悔しい、寂しい、やり残した事がある、まだまだやれる、悔しい、寂しい。

委員長交代の願書を出した月の25日、青年会本部例会。
皮肉にも、例会の司会当番は私であった。
司会は新任委員長の名前を読み上げる。
台本には「繁藤分会、〇〇(大教会長後継者の名前)」とある。 
大きな声で読み上げたった。
会場前列に座っていた本会委員会メンバーが一斉に私の顔を「えっっ!!??」「は?」と驚きの表情で見た。私の顔はたぶん喜怒哀楽がごちゃ混ぜになった形相だったんだと思う。

直属委員長という立場がなくなったわけだが、部委練出向はなんとかやり切った。「アンタはもう直属委員長じゃないやん!」て言われる場面に遭遇しなくてホッとした。本会パワー1本で乗り切った。
そして我が分会の部委練の開催日。

新しい委員長(当時、大教会長後継者)は、所信表明にも似た挨拶をなさった。
「青年会は、教会の元気印でありたい!」
うん、まったく賛成だ!

数ヶ月後、大勢の仲間と共に本部総会に参加する新しい直属委員長はとても晴れ晴れとして、頼もしく映った。

そうか、青年会にはこの新陳代謝が必要なんだな、と納得した。
そして飯降委員長は真の男(漢)になり、私も無事に青年会本部の任期を勤め終え、教区委員長も思ってた意中の人に引き継ぎが出来て、約20年間頑張ってきた青年会活動が幕を閉じた。

さぁ〜て♪
天理教青年会の活動4「OB編」は、またいつかほとぼりが完全に冷めてから書きますね。
なんつったって今は書けないことばっかりなんだもーーん😆
時効を迎えたら書きます!

そして、青年会活動を通して、直属(タテ)と教区(ヨコ)についていろいろと思案する場面があったので、改めて、天理教のタテ・ヨコ・ナナメ?についても書こうと思ってます。

以上で
青年会活動3部作の閉幕です。
長々とありがとうございましたー🙇‍♂️

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