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おやさま140年祭 ぼちぼちと、ね

年祭活動、て耳にしたら
「あ、なんかやらないとっ」
「みんな、がんばってるんだろうな、、」
とか、意味もなく焦りを感じたりしませんか?私だけ?

天理時報などお道の機関紙を眺めると、「年祭活動、やってまっせー!」的な勇んだ記事が並んでますね、、
年祭活動加熱記事はこの先もヒートアップしますよ、きっと

“年祭活動って何?”
“年祭活動、とはいうものの、、、”
“いやあ、取り残されちまった”
ていう方々のための、ぼちぼちと、微速前進タイプのゆるっとした記事なんかもあったらいいのに、、などと安息を求めてしまうのは、私だけ?
教会長という立場でこんなこと言うのは、失格でしょかね
まあ、いいんです(と言い聞かせてます)

昨年10月26日、ご本部の秋季大祭にて真柱様から「諭達第四号」をご発布いただきました
この時の真柱様のお話、私は手帳に書き写して時々見返しています
せっかくなので、再掲しますね

年祭をつとめる意義は、昔から変わらないのであります。
つとめる人の気持ちは、定命を縮めて身を隠してまでも、子供の成人をお急き込み下さった、をやの思いを思い起こして、年祭を目標(めどう)に、仕切って成人の道を歩み、その実をもってお答えしようとつとめて来た事に於いては、変わりは無かったし、その基本精神は、今後も変ってはならないと思うのであります。
年祭をつとめる意義については、変わりません。しかし、時の流れと共に、年祭をつとめる度に、そのつとめる人の顔ぶれは多少なりとも変わって行くのであります。
その中には、当然のことながら、年祭の意味合い、どういう気持ちで勤めるか分からない人もいるのであります。
全教の心を、その辺のところを知らない人は年祭の意味を知り、そしてをやの思いに沿わせてもらおうと、積極的に歩む、そういう気持になってもらう。
そのための材料として、この諭達が利用してもらえれば良いかと思います。

一言お願いを添えて、今日の挨拶とさせて頂きたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。

2022.10.26秋季大祭

年祭活動を周知する、年祭を知らない人たちにもその気になってもらう、「そのための材料として」この諭達第四号を利用してほしい、との仰せです

「にをいがけ」とは、外に向かっては、親神様の御教えを未だ知らない人たちに伝え広める布教のことですが、内に向かっては、つまり、自分と関わる家族や教会につながる方々など、すでに共にこの道を歩んでいる方々に対して“お道の活動”をお伝えすることも「にをいがけ」

あ、そうそう、「にをい」に関する「おさしづ」がありましたね

明治四十年四月七日(陰暦二月二十五日)午後九時三十分
にをいの事早いほうがよいで。急いでやってくれ。急いでやってくれにゃならん。急いでやっても良い加減になる。残らず/\遠い所、悠っくりして居ては遅れる。この人ににをいを掛けんならんと思えば、道の辻で会うても掛けてくれ。これからこれが仕事や。(後略)

おさしづ 明治40年4月7日

このおさしづでの“にをい”とは、大正普請のことを指していると思われますが、このおさしづを今に返すと、「おやさま140年祭があるんだよ」という“にをい”だと理解します
「道の辻で」と仰せられるのは、タイミングを見失わないように、ということだと思います
なんか急かされる感覚もありますが、今から取り掛かるとちょうど良い加減になるそうです
「年祭活動に出遅れたーー💦」て思っているそこのアナタ、今から取り掛かるのがアナタのスタート地点ですよね

自分と関わる身近な方々に「おやさまの年祭があるね」「2026年1月だよ」
「この『諭達』に書いてあることを一緒に実行してみようね」とお伝えすることができたならば、それは立派な“にをいがけ”であり、素晴らしい年祭活動ですよね!

え!?そんな感じでいいの??
いいーーんです!
「全教の心を一つにしたい」と諭達でお示しくださる真柱様の思いは、まずは、おやさま140年祭に向かうベクトルに一人でも多くの方々を巻き込んで、いずれは“全員”の一手一つを願われているんだと思います

年祭活動第1年目
ぼちぼちと、自分にできるスタイルで、自分のペースで、微速前進してみませんか
毎日を晴天の心で、ニコニコ、いそいそと勤めていれば、アナタの背中はきっと誰かに映るはずです

そういえば、昨年10月26日のtweetに私はこんなことをメモしてました

@gikk_ikken 2022.10.26.

「感激と奮起」とかカッコいいこと綴ってますやん
奮起かあ、、、
いやいや、私もぼちぼちと自分のペースで勇んで勤めますよっ!

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