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明るい「いんねん」私考

アカン、タイトルからして重い、ゼッタイ読みたくならない。
面倒なテーマを選んでしまった。
だけど、避けては通れないのよね。

“いんねん”て、自分自身で悟り自覚するもの。
人様に「アンタはこうだよ」て諭したって嫌がられるだけ(かも)。
そして私も人から諭されるのがイヤ。
こんな調子だからいつまで経っても私のいんねん私考は進まなくて立ち往生状態なんです。
今回、私の現在地を記してみますので、どうか良きアドバイスをお願いしますね。

お!一発で目次作成ができるんや!スゴイ!3作目にして初めて知った機能だわ😆

①先天的いんねん 〜入信前〜

初代は私の曾々祖父母
入信の経緯はザックリいうと(ガッツリいうと2時間くらいは余裕で費やします)、家が続かない、家が断絶するかも、という事情の中に親神様の御教えに出会い、聞き分けて、納得して入信。
以来、2代、3代、4代(父)は、兄弟はいたけど養子や夭折などがあり、かろうじて男一人が繋がって今日まで直系で家が続いてきた。そして5代である私に兄弟ができ、次男(私の弟)が結婚し家庭を持ち子供が生まれマイホームを建てて、親神様を祀った。
家が続かない、家が断絶する、という事情にあっても今日まで繋いでいただき、オマケに形の上では分家までできるようになった。
弟が家庭を持ち家を建て親神様を祀ったのが、奇しくも初代入信から数えて100年目だった。
父としみじみと語った。
「親神様のご守護は気が遠くなるほど長いねぇ、100年もかかるのか、、」と。

②後天的いんねん 〜入信後〜

初代夫婦は入信後も身上壮健にて布教と人だすけに奔走し、教会を設立し、与えられた命を全うした。
しかし、2代、3代は不慮の交通事故で突然に出直した。
4代(父)は、若い頃に大事故に遭い、命は繋いでいただいたが、両脚は不自由のままとの看立てなるも、その後全快した。
私は、小学2年の頃に父が運転する車から転落し大怪我を負うという事故に遭った。また大学生の時、父から借りた車を運転中、操作を誤り川に転落するという事故にも遭った。また高速道路を走行中にタイヤがバーストするという、危機一髪の怖いアクシデントを二度経験した。
しかし、おかげで今日まで命は繋いでいただいている。
それにしても、私は交通事故現場にはよく出くわし、その度に自分への戒めだと受け止めて安全を心掛けている。
2代以降は交通事故が続いてるんです。

③先天的?後天的? 〜沼ってる〜

もうこの時点で沼なんです。

先天的とはいえ、初代以前の家系は、史料や家系図によると少なくとも18代は続いている家なんですね。だから、家が続かない、断絶するかもという事情は、ホンマに先天的なのか?
あくまでも入信を境として思案すると先天的ではあるが、、、
反面、後天的はわかる。うん。
しかも代を重ねるごとに「お守りいただいている」という実感もある。

親神様の御教えを聞き、少しでも思召に近づこうと努力している道中に、家の運命や弥栄は好転しているなという実感はあるし、これを「御守護だ!」と両手を挙げてワーィ万歳て、初心者じゃあるまいし、そんな簡単なものではないことは分かっているつもり。

いわゆる“良くないいんねん”を断ち切るために信仰を始めたんだと思うんです、初代夫婦は。
初代一代で思案するとこんなけっこうなことはない。
しかし、2代以降はどうだろうか。
やはり、交通事故の節々が、あとからついてきた“良くないいんねん”と思えてしまうんですよね。

なので、私は「先天的」と「後天的」とに分けて考えてしまうんです。

ここ迄、私の言わんとするところがご理解いただけますか?
他人のいんねん話しって、面白くないですよね。けど、もうちょっとだけお付き合いくださいね。
明るくなりますよ💡

④良いいんねん 〜白いんねん〜

明治14年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せて頂いた時のお話に、「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。」と、かようなお言葉ぶりで、お聞かせ下さいました。

稿本天理教教祖伝逸話篇90「一代より二代」

“悪いんねん”の者でも“白いんねん”にして下さる。
ウチはこの逆パターン??
ここまで代を重ねて信仰を続けても??
人間は900,099,999年間以上の長きに亘って生まれ変わり出変わりを重ねてきてるんだから、たかが数代の家系を見渡しただけで、いんねんの自覚なんて出来るのだろうか??
イヤイヤ、もうやめよう、こんなスパイラル。
この逸話篇の真意と神意を山沢ショーゾォー君に一度聞いてみるとするかw。

私は、“みんな一人一人、幸せになることが出来るいんねんを持っているんだ”と考えています。もちろん、青天の霹靂の如く、悲哀を伴うライフイベントは人は皆一度は経験する。
しかし、それは「節」とお聞かせいただく。
「いんねんなんかじゃない!」
「この節を乗り越えたら幸せがあるんだ!」
「みんな丸ぁるく治るんだ!」
だから“悪いんねん”は、一寸のほこりがついたゆへなり(1-53)、ではないかも知れないけど、そう考えることにしていますよ。
そのほうが心が楽になるしね。

人間は、陽気ぐらしが出来るようになる“良いいんねん”を必ず持っていると信じている。

だから、あらゆる事情や病気で悩む方々にも「ぜったい大丈夫」と伝えている。決して、無責任な言い方ではないですよ。
そして、信者さん方や関わった方から困り事や悩み事などをお聞きする時、今までは「この方や親々にはどんな良くない過去があったのかなぁ?」と無意識のうちに“悪いんねん”を探ろうとしてたんですが、今では、「この方にはどんな幸せの種があるかなぁ」という観点から“白いんねん”のキッカケを見つけ出せるように傾聴してるんですよ。その方が会話も弾みますしねー

⑤終わりに 〜むしろ始まり〜

親神様の御教えを信じ、身に行う私たち。
親神様の御教えを知らずに、暮らす方々。
御教えを知っておきながらも教えに沿わない生き方をするのは、御教えは知らないし、まぁ、自分の好きなように生きるよ、ていう方々よりもタチが悪いよね。そりゃ、思わぬ憂き目にも遭うかもよ。

ウチの2代3代4代が、タチの悪い生き方をしてきたとは決して思わない。断じてそうではない。むしろ、艱難辛苦の中をも、おやさまの御ひながたを道しるべに勤めてきた。
だから、今の私がある。
だから、ありがたいんよね。
そして、
だけど、ありがたいんよね。

人はみんな一人一人、幸せになることが出来るいんねんを持っている。
人はみんな「陽気ぐらし」が出来るいんねんを持っている。
そう信じていますよ。
親神様がそう仰るんだからね。
答えの出ないいんねん思案に縛られるのはやめとこ。

で、「先天的?」「後天的?」の答えはどうなったん?
そんなの簡単、先天的な道はどうしようもない、後天的な道は自分の心で作るんですよ!
6代以降の道は6代以降の子孫たちが作ればイイじゃん。

さぁ、明るい道の始まりですよっ❗️
心明るく、心晴天に、ニコニコいそいそと毎日をお過ごし下さい
ここまでお読みくださって大変ありがとうございましたっ
感謝感激感涙です😭

ではまた来週👋

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