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自己矛盾


人間は矛盾した生き物。
シーソーのように意識と無意識、2つの世界でちょうど良いバランスを取り続けるのが、私の時間軸の在り方。
相反するものを統合し、矛盾を取り除こうと自然に働いている。

矛盾の中に自分を置く人は、物事や人の言動矛盾に気がつくのが早いかもしれない。
どの部分の矛盾を鋭く捉えるかは、TiとNiで認識する場所は違うと思うが、私の場合は、目に見えない構造の矛盾や欠陥を見抜くのは早い方だ。


人は、考えてもどうにもならない問いの壁に突き当たると「仕方がない」「〇〇が悪い」「どうせ私なんて」と本当の理由は何なのか、それ以上掘り下げる事を諦めてしまう。
これによって問題は、過去(時間)に置き去りにされていくのだが、実のところ何も納得できていなくて、いつも不満を抱えているという人は多い。
自分の中にある矛盾は、できるだけ深く掘り下げ、自覚し解決に取り組む方が、前を向いて生きやすくなるのではと私はよく思うが‥
これはたぶん、内省好きでもなければ難しいのかもしれない。


自己矛盾の自覚がない人ほど、言葉は軽率になり、責任を伴わず自分勝手になってしまう。
その証拠に、なぜそれを言うのか、言ったのか、自分の言葉や行動の背景を説明できない。

「誰にも言わないから」と他人の話を聞きたがる噂好きは、他人の秘密を自分の話のネタにしたい。ただ相手の秘密を知りたいだけだという事に気がつかず「自分は相談に乗ってあげている」と都合よく思い込んでいる。
噂を広めれば「誰にも言わない」は無責任な言葉になり、「大丈夫?」と心配する表向きの顔と、他人の秘密に興味がある本心とは矛盾している。
噂を広めた事実を尋ねれば、「仕方なかった」とか「他の意見も聞いてみたかった」とかなんとか屁理屈をこねながら、自分の矛盾を正当化しだすだろう。

「悩んでいる人がいれば声をかける」「泣いてる人がいれば慰める」など、相手や物事のその時々の様子、その時々の感情状態に反応しているようだ。
近くで火事が起こったり急病人がいれば「大丈夫か」と言いながら、その様子を動画で撮る人もいる。「争いごとは嫌いだ」と世界平和を主張しながら、自分に関係のない身近に起こった喧嘩を喜んで見にいく人もいる。


誰かが「あ」といえば「あ」と言うように、他人や物事に対して山びこのように自分が反応している。
「自分の言葉を説明して」「なぜそんな事をしたの?」と尋ねると
「〇〇さんが あ と言ったから、私は あ と言っただけなんだ」と言い、それ以上の答えは自分の中から得られない事も多い。

「〇〇が優しくしてくれたから私も優しくした」
「〇〇はこのように頑張っていたから、私もこのように頑張ってみる」
「〇〇さんが叩いたから私は叩いたんだ」
「〇〇が金を取ったんだから、俺だってこのくらいは良いんだ」
「先輩に散々虐められたんだから、先輩になれば後輩を虐めて当然だ」

といった具合に、
〇〇されたから、〇〇だと言ったから、
〇〇したから、〇〇だったので、
物事や他人のアクションに対する自分の反応が言動の主になるため「自分がなぜそうしたのか」自分の背景、意思決定を説明できない人が多い。
「だって普通そうでしょ」
「それは人間として当たり前だから」
「その場に相応しいと思ったから」
追加でそんな返答が返ってくるかもしれない。

「〇〇だから、私はこうした」は、自分の意思がないように思えてしまうし、本心との矛盾や理由を説明できずに正当化する姿に、言い訳が先行しているように思うのは、私とは時間が逆転しているからだろうかとよく思う。

この認識の違いを例えると、

多くの人は
「雨が降ったから傘をさす」「いつ雨が降るか分からないから傘を準備しよう」だが、
私は「傘をさせば雨が降る」で、雨が降るとわかるから自分の意思で傘をさし、来るであろうその時には傘を手に持っている。予測できなければその時は笑ってずぶ濡れになるか、今何ができるか対処法をすぐに考えるだろう。
だから「あの時傘がなかったから、ずぶ濡れになったんだ。自分は出来ないやつだ」と後で落ち込まないし、「天気予報が外れたから酷い目にあった」と他責する事もない。
ただ事実そのままを受け入れている。


私が認識する時間の流れはいつも必然で、物事や言葉に対する咄嗟の反応ではなく、意思決定に基づいている。
集団においても、私は何かが起こる前に自分の直観で先に動くので、「みんな一緒に」という集団ルールから逸脱しやすい。
「みんなで一緒に考えよう」と始める横で、もう既にそれに着手し問題解決を進めているので、まわりから良い顔をされず「1人で気に入られようとしてる」「勝手に1人で先走ってずるい」と変な印象がつく。
一方で、全部お任せしたい人にとっては「有難い存在」として重宝される。

まわりに合わせようとするが、私が気付き、問題提示したところで問題すら認識できない事が多く、私は1人で進める事になる。
彼らは、起こった事実に対して「もう二度とこういう事が起こらないようにしよう」と過去の経験を振り返り、予期せぬ未来に対応しようとするが、私は「それをそもそも起こさないようにすること」を目的として動くので、隠された目に見えない問題に、まわりより早く気がつき取り掛かる。ただそれだけの違い。
だから私はいつも謎を追いかけ、問題解決が好きだ。


集団平等を意識する人は、私に「あなたはおかしい」と自分の常識を押し付けるが、どこがどうおかしいのか理由を尋ねれば、修正や改善案を示すというより、中止を求め「みんなに迷惑だからだ」と言う。
彼らにとっての不都合とは、自分(集団)の常識が覆される事にあり、今まで自分が信じてきた事を「間違えてますよ」と言われれば、反発したくなるのも無理はないし、特に利害が絡んでいる場合は、邪魔者扱いになる。

「じゃあこの問題はどうすれば良いんだ?」と私は困惑し「集団のみんな」に歩調を合わせるためには、私はありのままの自分でいる事は難しい。


私は自分のペースで生きているが、集団に認識を合わせなきゃいけないのだろうか?と思いながら、その辺りは物理的距離を遠くに保つ事で、私自身のバランスを取っている。
しかしこの認識の違いは、距離を取ってもやっかみを受けたり、出る杭は打たれる存在になりやすいのも事実。
お互いに見ているところ、大事にするところが違うだけだけど、それを説明しても、その違いを理解し認識するのも難しいようだ。
これは価値観、意思決定背景の違いになる。
私は目に見えない問題を見ていて、そこに責任を感じており、解決を望んでいるが、彼らは集団の中で、みんな平等である事を望むため、誰かが突出していると、叩きたくなるんだろう。
そしてこの「みんな」という主張にも、ナルシシズムに隠された自己矛盾がある。


学校教育も理想と現実は矛盾に満ちており、言ってることとやってる事はチグハグだ。
「個性」が大切だと教育理念を掲げながら「みんな一緒に学ぶ事」「みんな平等に進む事」受け身で知識を提供するスタイルは変わらない。知識の定着に重きを置く(インプット)もので、子どもたちの個性(アウトプット)や思考力自体潰されていくのもわかる。




同調と自己矛盾


集団を大切にし、他人に反応するあまり「自分がどうしたいのか」本心を見失うのは当然の事で、他人軸にある人は、他人の真似をしたり、学ぶ事や成長への受け身の姿勢が、性格骨組みの前提にあり「自分はいったい何のために生きているのか、自分は何者なのか」自分そのものを見失いやすく、存在意義に疑問を抱きやすいだろう。


性格類型界隈でも「タイプあるある」として、反応の比べ合いが盛んに行われているが、意識表面上のものであれば、自己分析によって深部や自分の背景を理解しようというより、憧れのなりたい自分や願望的なエンタメなのかもしれない。
物事に対する表面的な反応の違いを比べても、比べているのは反応の違いであって、骨組みの違いではないだろう。
もし反応として比べるなら、深部にある骨組パターンから無意識と意識を論理で繋がないと理論自体成り立たない。

前提が違えば、認識する場所や解釈も異なり、話が噛み合わないのも事実で、これはなかなか難しい。

そしてやはり問題になるのは、個人的な決めつけをもとに無責任な事を言い、各タイプの偏見が横行していることだろう。


積極的に気付きを得たい、自分が変化したい、自分を掘り下げたいと、ありのままの自分探しを真剣に考える人、真実に向かいたい人は本当にひと握りなのかもしれない。
自己分析は、自己矛盾に向き合い、自覚する作業で、真実は願望と逆方向にある。

「他人の意見に調子を合わせる人、流される人」同調は、日本人にとても多い。

対立の構図として興味深いのは、自分が同調してるのにも関わらず、自分の都合が悪いと「同調圧力だ!」と他人に怒り出し自己主張し出す人が世の中には多い事だ。

昔から日本で大切にされているのは、他人と衝突することをなるべく避け、和を尊ぶという考え方。
「場の空気を読む」のは日本特有のものかと思う。集団の人間関係や利害関係、雰囲気などを暗黙のうちに理解する事だが、これができないと「空気が読めない」などと、ネガティブな評価を受けてしまう事になる。

自分自身も集団に同調しながらも「空気が読めない」と誰かに指摘されたり、集団から仲間外れに合うことで、「同調圧力を嫌う」立場になるが、その後、別の気の合う集団で同調し合い、己の正当性を主張する事で、別の少数意見に圧力をかけていく。
結局、被害者も加害者もその対象が変わるだけで、やってる事は同じで何も変わらないという矛盾に陥りやすい。


加害者である自覚もなく、「自分は被害者だ」と過去に囚われ、心に怒りや憎しみを抱き続ける人は世の中に多い。
集団内で同調し合い、排除し排除されては、争い仕返し、反発を繰り返している。


自己矛盾を抱える人が多いのは、当の本人らが、山びこのように他人に反応する事で、自分が何をやっているのか、何を言っているのか、潜在的な本心や深部にある自分の欲求を自覚していないからじゃないかと最近考えている。

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