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なぜ劇場版ガンダムSEEDはイカれた内容でも愛されたのか?-狂気と正気の混在-

注意:ネタバレ多数


めちゃくちゃ面白いじゃないか

「ガンダムSEEDの続編」というワードを聞けば、ガンダムファンなら誰もが苦虫を嚙み潰したような顔をする。SEEDとDESTINYをリアタイした私もその一人だ。
そんなわけで今回の映画も大して期待はしていなかった。
しかし蓋を開けてみれば、その内容は「成功」と言って差し支えないクオリティだったと思う。

本作はかなり、いやこの上なく「イカれた」アニメだった。分身したディスティニーが画面を埋め尽くしたときは「私は幻覚を見てるのか…?それとも上映中にうっかり寝て狂気のガンダムオタクの夢を見てるのか…?」と自分の正気を疑った。しかしそれは紛れもなくスクリーンで起こった出来事だった。
いったい監督はどうしてしまったのか。ハイになりすぎて一睡もせずに作った脚本が何かの手違いで完成されてしまったのか?
とにかくまともなプロセスを経て完成されたとは思えないイカれ具合だ。(褒めている)
この映画は「夜の首都高を300㎞/hでブッ飛ばしているような感覚」に陥る。
しかしこうも思う。
「300km/hで首都高をブッ飛ばしているにもかかわらず、なぜが全く事故る気配がない。どころか完璧にそのスピードを制御しているじゃないか」と。

本稿では、なぜこの映画がこれほどまでに狂った芸当をしながら、それでも成功した作品になれたのかを解説したい。

実は丁寧なキャラ描写

ラストの勢いで忘れてしまいそうになるが、実はこの映画はとても丁寧かつスマートにキャラの感情を描いている。
中盤のキラとアスランの殴り合いのシーンなどは特にそうだったが、キャラの感情表現に抜かりが無い。
アスランが弱音を吐くキラに対し、「俺の知ってるラクスはそんな女じゃない」みたいなセリフを言った際、周囲にいた他のキャラたちが皆「えっ?」というリアクションをする。それらをアスランはちらっと見てけん制する。
これらのアクションからは様々なキャラの感情が読み取れる。しかしこのシーンで重要なのは、


「この場にいる人間たちの思いははもう結束している」という印象を観客に効果的にアピールできている点だ。
その場にいる人々は、既に言葉を使わずとも互いの思いを察することができる、そういう印象を観客に非常にスマートに提供している。そういう細かなキャラたちの思いの積み重ねがあってこそ、我々はキャラに感情移入してこの後の戦闘シーンを熱中して見ることができるのだ。

言い出せばキリがないが、この映画は実はそういった丁寧な人物描写において非常に優れていた。つまり、
「アクションだけじゃない、じつはものすごく丁寧にキャラの感情を描くことに成功していた」
からこそ、本作はただのクレイジー映画ではない、多くの観客の視聴に耐えうる作品になれたのだ。

これはスタッフが作品と20数年という付き合いを経て、登場人物たちを深く理解できていたことの証明だと思う。
この映画は決して適当に作られていない。あくまで真剣だ。
だからこそキャラへの理解と愛が随所に感じられたのだ。

なので、

後半の狂気とそれらの両立

がマジで怖い。スタッフはおかしくなったわけじゃない。あくまで正気で、丁寧に丁寧にあの後半を作ったのだ。
マジでどうかしている。クリエイターとして丈夫すぎる。

まあ「割れるズゴック」などのアイデアが通っている時点で、ある程度の吹っ切れというか、「1000%エンタメでいこう、最後だからって湿っぽくするのはやめよう」という理解で制作されたのだろう。
結果としてそれは成功したのだ。

最後に個人的に最も「おっ?」となった点を紹介したい。私はこのポイントがあったから、この作品をかなり好きになれたと思う。それは

ラストバトルに隠された監督からのメッセージ

だ。
ラストバトル、つまりキラ&ラクス VS オルフェ&イングリットのカップル同士の対決だ。
マイティーストライクフリーダムはあまりにも強かった。その時、劣勢に立たされたオルフェがキラに対して「人の愚かさ」を説くシーンにおいて、「今までのシリーズで無惨に散っていった人々の映像」がバックに使われていた。
そしてオルフェはラクスと歩む覚悟を決めたキラに敗れる。
…普通は逆じゃないか?
いわゆるヒーローは「弱き者のために戦う」ものだ。なのでそういった「死んでいった人々」のイメージは主人公に付けたくなる。
しかしこのシーン、オルフェがそういった「死んでいった人々」の思いを代弁し、それをキラが一刀両断しているようなイメージになってしまう。
なぜこのような演出になっているのか。
私はこれは

「監督からキラへの無条件の愛」

の現れだと思った。
最後にキラは自分の意思で自分の欲しいもの(ラクス)を手に入れる。そこにはなんの大儀も後ろ盾もない。ただ欲しいから邪魔なオルフェを倒すのだ。
私はこのシーンのキラからは主人公らしくないわがままさというか、ラクスのためなら善も悪も関係なく何でもやってのけてしまいそうな危うさが感じとれた。
仮にも20数年やってきたシリーズの主人公が最後にそうなるのか…?と不思議に感じたがふとあることに気がついた。
監督はキラが大好きなのだ。
だからキラのわがままでも何でも叶えてあげたいのだ。そしてキラは最後に裸のラクスをプレゼントされた。

ラストバトルにおける監督の演出は、「何があろうと俺はキラ愛を貫き通すぞ。」という強い意志の現れだと私は思った。
そして最後までそれを表現されてしまっては、私は「もうわたった」と納得してしまった。そこまで好きなら、よくそれを最後まで貫いたと。

前作において不服だったその点を納得させられたのは大きかった。
あまりにも大きなキラ愛に若干引きつつも、その強い意志を込めた演出にすなおに感動したいと思う。





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