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小説 フィリピン“日本兵探し” (20)



フィリピンの7月は雨季にあたる。1~2時間ざっと降る感じだ。この日は、ざっと降ってすぐにやむスコールだった。 ミンダナオ島のダバオにある国際空港、フランシスコ・バンゴイ国際空港。政治家、フランシスコ・バンゴイを記念して命名された空港だ。ダバオ国際空港とも呼ばれている。ここで、午後の雨上がりに傘を持つ男の姿は特に目立つものではなかった。空港警備員の足元に置かれていた琥珀色の液体が入ったビニール袋を男は傘の先端で刺し、足早にその場を離れた。

雨がやみ、路面は日に照らされ、その反射は目を開けていられないほどの眩しさだった。男が逃げてから、最悪の事態までは数分もかからなかった。 VXガスは、神経情報を伝達する酵素の働きを妨げ、けいれんや呼吸困難、意識障害などを引き起こす毒ガスだ。足元のビニール袋の液体が飛び散って、驚いた空港警備員は、そのビニール袋を持ち上げ、臭いを嗅いでみた。それが人類史上最悪の猛毒とも知らずに。空港警備員は何が起こったのかも分からずにその場を歩き回った。毒が全身に回ってくると、空港警備員は立っていられなくなり、その場にしゃがみ込んだ。彼の瞳孔は縮小し、そして死に至った。

ミンダナオ島から離れたサマール島でテレビのニュースに見入っている共産ゲリラとマリア。
「実行部隊は予防薬を使ったのか?予防薬がなくても、VXガスは空気より比重は重たい。実行部隊がガスを吸い込むことはないだろう」
マリアはこの遠く離れた島で、ミンダナオ島の空港で起きた「毒ガステロ」のニュースを共産ゲリラのジュンとともに見ていた。
「結局、5人警備員が死んだみたいですね。ヤバイ物って気付かないと、簡単に触っちゃいますからね、あの悪魔の液体に。予防薬を注射してれば別ですけど。実行部隊のフランシスコは、予防薬をちゃんと打たせてもらいましたよ」
空港の名称と同じ名の実行部隊を割り振るとは悪いジョークだった。倒れた空港警備員が搬送される同じ映像が何回も流れるテレビのニュース。フィリピン政府が事件発生を受け、すぐに軍を出動させ、毒ガス処理を進めているということを伝えていた。

このニュースを見て驚いたのは、日本大使館の宮田一等書記官だった。
「本当だったんだ」
フィリピン政府軍が素早く動いたのは、日本大使館からの事前の情報提供があったからだった。
もたもたしていたら、さらに多くの人々が液体に近づき、VXガスを吸ってしまっていたことだろう。
「ということは、あのVXガスは54年前の戦争の遺物ということなのか」
宮田は、メモをとっていたマサの連絡先に電話をかけた。

「ハロー」、アキラの携帯電話だった。
「マサさんに、代わってもらえますか?」
電話口にマサが出た。
「あっ、この間の大使館の人ね?どうしたと?」
「ミンダナオ島の空港で毒ガスを使ったテロがあったんです。空港警備員5人がそのガスを吸って死にました」
「あの共産ゲリラ、本当にそんなことしたとね?そしたら、その毒ガスは、日本のっちゅうこったい。どうすると?」
「日本政府として、NPA、その共産ゲリラと接触します。マサさんにはそれができる窓口があるんですよね?」
「窓口っちいうか、鉄砲撃ち合ったりしとうとよ」
「それであってもいいです」
「会わせろってことね?」
「残留日本兵はかつて、フィリピンであれば、数千人はいたと思われます。二世の方々の国籍が問題になっているくらいなので。しかし国籍なしで、家族を持っている人も多いのが現状なんですよ。今回のように、毒ガスや金品、そして日本に対する憎悪が絡み合って、あの戦争を引きずっているようなケースはこれまでなかったんです。」
「あんたらがそう思っとるだけやないと?なんか今回の日本兵探しからは、英霊の皆さんのお国に対する怒りのようなもんば感じるけどね」
確かに宮田や日本政府の考えは、空港の毒ガステロが日本と関わりがないものと証明したい、その一点に絞られていた。横井庄一氏や小野田寛郎氏の帰国とは、この事件の展開の仕方は明らかに違っていた。

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