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小説 フィリピン“日本兵探し” (7)

終戦後、レイテ島で戦死した多くの日本兵の遺族に届けられた戦死の知らせは、「昭和20年(1945年)7月1日フィリピンのレイテ島カンギポット山にて戦死」と記された紙切れと現地の石ころだけだった。なぜ7月1日なのか。

レイテ島の戦いで日本軍が最後に立て籠もったカンギポット山、日本兵たちに「歓喜峰」と呼ばれた山。「歓喜峰に集結せよ」との命令を受け、すでに軍隊としての機能を失っていた日本軍部隊の兵士たちは、それぞれで歓喜峰を目指した。元二等兵もその一人だった。

レイテ島に上陸した米軍は20万を超え、圧倒的な火力の前に日本軍は各戦場で撃滅された。8万4000の日本兵のうち生き残っていたのは、この時点でわずか2万人ほどだった。

食料や武器弾薬の供給は閉ざされ、歓喜峰に取り残された日本兵に下った命令は「自給自戦」、自分たちで食料も調達し、死ぬまで戦い続けろということだった。

1945年6月のある日、元兵長は敵陣の攻撃を計画していたとという。「あの日は、アメちゃん(米兵)と激しく撃ち合ったんよ。頭に銃弾ば受けたもんね」と元兵長は戦争の話を懐かしげに語った。タカシが興味深げに「頭にですか?ヘルメットって銃弾を弾くんですか?」と聞くと、元兵長は笑いながら、「頭の周りを1回転して出たんよ。弾が」と語った。どうやらヘルメットというものはそういう機能を持っているらしく、運が良ければ、頭部に被弾してもヘルメットと頭の間を銃弾が走り、外に抜け出ることがあるというのだ。弾が走った跡は、髪の毛が焦げ、多少のけがはするのだが、命に別条はなしということもあるようだ。

命拾いした気持ちで、敵陣を攻め、缶詰めや、大根やキャベツなど野菜を戦利品として手に入れ、その日、兵長たちは日本軍の陣地に、意気揚々と引き上げたという。

それから数日後、日本軍がカンギポット山の周辺に集まっていることを知った米軍は、激しい攻撃を繰り返した。米軍に追い詰められた日本軍は、いよいよカンギポット山に逃れ、なおも抗戦を続けたが、最終的に全軍が包囲され、集中砲火を浴びた。この日が多くの遺族に届けられた戦死の知らせにある「7月1日」。ほぼ全滅だった。

そうした地獄を生き残った兵長。彼は、飢えで倒れ投降した。米兵からは、投降するときに武装放棄させられ、不衛生という理由で戦闘服を全て脱がされた。日本軍の戦闘服などは燃やされ、黒い煙が立ち上った。そうした米軍の行為は、自分たちの自尊心を否定し屈辱を与えるためだったのだろうと、元兵長は悔しさをにじませ勝者の指示に従った過去の記憶を思い返した。

一人の米兵が裸の兵長のそばに近づき、彼が片時も放さぬよう首に掛けていた巾着袋に手を伸ばしたという。「それだけは勘弁してくれ」、兵長は米兵に追いすがった。巾着袋を開けたとたん、米兵は不快な表情を露骨に表した。中身は亡き戦友たちの指、十数本。米兵は生ゴミでも捨てるかのように、巾着袋をそのまま火に投じた。

「なぜあんなひどいことができるのか」、元兵長はジプニーに揺られながら目に涙を浮かべ、タカシに語りながらも、自分自身に言い聞かせるかのように語った。指は、戦友の亡骸そのものだった。一人一人の死に際に彼は居合わせ、「死ねば日本に帰れる」と慰めにもならない言葉を掛けながら戦友たちを見送った。その彼らの指すら日本の土に戻すことができなかったことは、元兵長の心に深い疵となって50年以上も残った。

1999年7月、サマール島の洞窟にいるという日本兵が、そうした戦場を知る戦友であるならば、日本に返してあげたい。それは日本に帰れなかった戦友たちへの罪滅ぼしになるのではないか、自分だけが生き残ってしまったと負い目を持ち続けた元兵長の中にある答えだった。

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