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1.初めての法律事務所
藤原「終わった」
司法試験の合格者名簿が貼り付けられた掲示板には案の定俺の名前はなかった。『ひょっとして』との微かな期待を抱いてやって来たのだが。
歓喜の声の渦の中、俺は虚しく京都の街路を歩いた。仕官しそこなった浪人のような惨めな境遇だ。
10回目の司法試験に落ちてしまったのだ。時間を無為にしてしまった後悔、支え続けてくれた両親への申し訳なさで、逆流する血潮に全身が包まれた。
ともかく。今回失敗したら諦めようと思っていた。ここから人生を立て直さないといけない。
それからの日々。俺は足掻きに足掻いた。
久しぶりに履歴書を書いた。法学部卒業のほか、珠算一級、簿記二級など大昔に取得した僅かな資格をさも立派な経歴のように書き立て、様々な会社に送りつけた。だが、一社も面接にすら辿り着くことができなかった。
藤原「職歴もなく30歳過ぎの男が正社員として採用されるのはなかなか難しいよなあ」
大学卒業後、殆どを受験に明け暮れていたのだ。
就職情報誌やネット情報を眺め、俺は途方に暮れた。挫折した人間が再起するのはいつの時代も困難なものだ。
思案の末、俺は大学時代の先輩に連絡した。まさに藁にも縋る思いであった。
『そうか。ちょうど良かった。ウチの事務所に来るか』
それは大学のサークルの先輩で何かとお世話になっていた津山義博弁護士だ。
事務職員に欠員が出そうだから、ちょうど募集をかけようと思っていたところとのこと。
渡りに船とは、まさにこのことだと思った。向こう岸に渡る最後の船に飛び乗ったかのような心地であった。
こうして俺は先輩の伝手を辿って入所した。いわゆるコネに頼ったわけだ。だが、この際、コネだろうが親の七光りだろうが何でも構わなかった。とにかく経済的に自立しなければならないのだから。
先輩がいるのは、創設から100年にもなる由緒ある法律事務所であった。大正時代に先輩のおじいさん、つまり祖父にあたる津山喜八が開所したとのことだ。大阪弁護士会の会長を務めた重鎮でもある。
俺は緊張したが、先輩は言った。
「なに、心配する必要はない。事務職員なんて誰でもできる仕事だよ」
ところが。いざ入所すると戸惑いの連続だ。右往左往してばかりだ。何もかもが独特な世界だ。裁判所とやりとりし、役所とやりとり、警察や検察とやりとりし、普通のことが決して目にしないような裁判書類、戸籍、事件関係の書類が目の前にやって来るのだ。
特徴的なのが弁護士と事務員には見えない壁が存在することだ。悪く言えばカーストだ。だが、カーストにするもしないも実は事務員次第だということに後に気づく。
弁護士の方も事務員の自発的な取り組みを期待しているとのだ。精神的自立には何事も経営的発想が必要だということに痛感することになる。
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