5.公正証書遺言を作成する(その4)

 俺は最寄りの鍛冶屋町公証役場に電話した。

『はい。鍛冶屋町公証役場でございます』

 事務の方が対応に出る。

藤原「公証人の錦織先生をお願いします」

 仕事を続けていくと、馴染みの税理士・司法書士・社労士というものが出来てくるものだ。錦織先生も何度か公正証書作成を依頼する中で近しくなった公証人。

 元検察官の公証人。気さくな方で様々な公証事務に関わることを訊き易いのでとても重宝していた。我々としては、気難しい人はどんなに優秀でも遠慮したいところだ。コミュニケーションで疲弊するのは勘弁だからだ。

錦織『ああ、藤原さんですか。今度は何ですか?』

藤原「遺言公正証書の作成をお願いしたいのですけど」

錦織『分かりました。ご存じとは思いますけど、必要書類をメモした書面を今からFAXしますので』

 この法曹界に足を踏み入れて一番驚いたのは、FAXという通信機器を多用することだ。民間企業では殆ど使われなくなったこのアナクロ機器をとても重宝していた。

 十分後、早速FAXが届いた。

 必要書類としては、まずは遺言者の本人確認書類だ。印鑑証明書か免許証(現在ならばマイナンバーカードでOKだ)。相続を受ける者の資料として、戸籍謄本、そして、遺言者との関係(親子なのか兄弟姉妹なのか)がわかる戸籍謄本類。改製原戸籍謄本などだ。

 と説明したが、その書類がどういうものか分からなくても問題はない。法律事務所や公証役場の担当者が、その収集の方法を親切に教えてくれるから。戸籍謄本類については代行で取得することも受け付けている。

 メモで太字で書かれているのが財産関係の資料である。ここで手数料が決まるので、公証人としてはきちんとした書類を提出してほしいところであろう。

 まあ、曲谷さんの総資産は100億円を超えるので、手数料は150万円ほどになろう。これも曲谷さんにはきちんと説明しておかないと。

 曲谷さんのご長女の靖子さんに電話して必要書類と手数料について説明する。手数料は、作成当日支払うので準備してもらわねばならない。特に今回は高額であるし。
靖子「よく分かりました。父に伝えておきます」
藤原「よろしくお願いします」
靖子「ところで…藤原さんにお願いがあるのですけど」
 改まった口調で切り出した。少し高慢なこの資産家のお嬢様にしては珍しいと思いながら。
藤原「なんでございましょう?」
靖子「その…遺言の内容を少し教えてもらうことは可能でしょうか?」
藤原「それはできません」俺は即答した。
 職務上知り得た事実を他人に漏らすことは一切許容されないという大前提があることに加え、遺言内容を相続人に事前に漏らすと騒動の因だからだ。
靖子「いえ、父からおおよその内容は聞いております。ちゃんとその通りに公正証書に記載されているかどうか、それを確認したいだけなんです」
藤原「その言葉を信頼されるべきかと存じます。我々には、たとえ遺言者の親密な相続人であろうと、勝手に内容を漏らすことは禁じられています」
靖子「…そう。残念ですわ。私としては今後ともそちらの事務所にお願いすることを思っておりましたのに」
 その物言いに不快感で胸を突かれた。
(しつこくネチネチと。将来の顧問契約を左右することを匂わせるような。嫌味な人だ。嫌いだな、俺は)
 こう言っては何だが、人間的にいかがなものかという依頼者に時折遭遇する。我々はプロなのでそういう顔色は一切出すことなく職務を遂行するのが基本だ。
 とはいえ、モンスタークレーマーの類については、やんわり依頼を断ることになろう。そういう人はまともなコミュニケーションが取れないので、結局は辞任することになるからだ。どこかの心療内科で診察を受けた方が良いのではないか、とおススメしたいときがある。

藤原「申し訳ありません。たとえ相手がどなたであろうとも同じことしか申し上げることはできません」

 原則を貫いたが、津山弁護士よりフォローして貰ったほうが良いと思った。会社支配権を靖子さんが握る可能性を考えると、あまり邪険にもできない。今後は代表者が靖子さんになる可能性もあるからだ。

 先輩の津山弁護士に有り体に報告した。

津山「そうか。俺も彼女は苦手なんだけれどな。宥めておくとするか」

 おもむろに電話をとった。弁護士という生き物は、極力苦手な相手は作らないように精神修養ができているものだ。

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