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1.初めての法律事務所(続き)

 20××年11月3日。
「藤原雅俊と申します。33歳です。ずっと司法試験受験生でしたので、右も左もわからぬ者ですが懸命に努めますので宜しくお願いします」
 出勤初日は異様に緊張していたのを覚えている。あと、電話が異様に怖かったのを覚えている。コールの音が鳴るたびにビクビクしたものだ。今から振り返ると、とんだ笑い話であるが、元来電話が大嫌いであった。
 無論法律事務所で電話が嫌いなんて言い分が通る余地はない。ガンガン電話が鳴り響くのだから。電話が鳴らない事務所は経営的にやばいとすら言うことができる。
「はい。津山法律事務所です」
『こちら夢洲加工の金井です』
「え、ゆめす…かきん?」
「ユメスカコウですよ、顧問先の」怪訝な声が返ってきた
「あ!大変失礼しました!」
 顧問先の会社の名前を覚えるのに一苦労した。こう言っちゃ失礼だが、聞いたこともない会社の名前を覚えるのは結構難しい。頭に全然入ってこないのだ。
「ちょっと、藤原さん」
「あ、はい!」
「顧問先名簿をチェックしてないの。ちゃんと覚えておかないと先方に失礼じゃないの」
 隣の席の中山さんがたしなめる。僕より10歳下の女性だが、全然大人であった。僕は体を縮めた。
「すいません。一生懸命覚えます」
 とにかく仕事の基本に慣れるのに四苦八苦した。これまでの主な職歴は家庭教師ぐらいだ。それと、昔、高校生の時に飲食店のアルバイトもしたっけ。その程度である。
 その後も事あるごとに障害にぶち当たった。
 法律事務勤務で欠かすことのできないのが発送業務である。定型郵便物だの定形外郵便物だの、書留に簡易書留に。目が回りそうであった。
 要は定型外は大きな封筒で送る郵便物、書留は補償額が大きく、簡易書留は補償額が小さい、そんな程度の理解で良いのだが、最初はなかなか頭に入ってこない。
「藤原さん、これ違うわよ!」
「書留じゃなくって簡易書留って言ったでしょ!」
「すいません!」
 半年ぐらいは謝ってばかりであった。
 ともかく。新しい世界に慣れるため日々追いまくられた。よくよく考えれば、こんなことは新人の誰もが通る道だと思う。俺はそのことを思い知るのが10年遅かっただけなのだ。

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