5.公正証書遺言を作成する(その3)

津山「え。資産の90%をお嬢様の靖子様に相続させる?」

 メモに目を落としていた津山は素っ頓狂な声をあげた。

 遺言の話ということもあり、靖子さんには別室に待機して貰っていた。

曲谷「そうじゃ。何か問題があるかの」

津山「遺留分の問題が生じます、曲谷さん」

 弁護士はまっすぐ依頼者の瞳を見詰めた。

 遺留分とは、遺言者による遺産処分に制約を課すもので、妻や子が相続人の場合は遺産の二分の一、両親祖父母が相続人の場合には遺産の三分の一が遺留分と定められ、それについては相続人の請求による回復が認められている(民法1042条1項)。

 つまり、相続財産が1億だとすると、妻と子が相続人であれば遺留分は5000万円であり、夫が愛人に8000万円を遺贈したとしても、3000万円は取り戻すことができるということだ。

 これは相続人の生活を保障する趣旨だ。まあ、夫が働いて妻が専業主婦という男尊女卑の時代の名残とも言える。つまり妻には資産がないという前提だ。妻も夫と同等に資産を築くのが当たり前の社会ならば、こんな制度設計にはなるまい。しばらくはこの制度が続くのであろうが…。

津山「法定相続人はお子さん二人ですので、それぞれ25%の遺留分が認められています」

曲谷「知っている。でも、遺留分を侵害する内容でも遺言できると聞いたぞ」

津山「よくご存知で。そのとおりです。他の相続人が遺留分侵害額請求をしてこなければ結局遺言内容を実現できますので、作成自体は許容されるということです」

 遺留分侵害額請求とは、先ほどの例で、妻と子が愛人に対して3000万円を請求することである。つまり、遺留分を侵害した場合は金銭的処理で解決するわけだ(民法1046条)。この法律の建前からも遺留分を侵害する遺言の存在は許容されているといえよう。

津山「でも、ご長男の友康さんは納得されるでしょうか」

曲谷「友康には会社の経営権を委ねている。わしの保有する20棟のマンションの管理収入が全て彼の懐に入る。それを勘案すれば不公平ではあるまい」

津山「とはいえ、このメモによると、その管理会社の株式の七割も靖子さんに与えるとされています。友康さんの地位は靖子さんに委ねられていることになります。つまり生殺与奪の権利は靖子さんにある。さすがに友康さんもお怒りになるのではないでしょうか」

 津山が暗に翻意を促しているのは、友康の経営する資産管理会社が当事務所の顧問先であったからだ。眼前で彼の不利益を見過ごすことはできないというところだろう。

曲谷「大丈夫だ。友康にはわしから得心させる。君には私の希望に沿った遺言書を作成してもらいたい」

 こうまで言われては否やはない。遺言の内容の決定権は結局遺言者本人にあるからだ。

津山「…分かりました。では早速取り掛かることにしましょう」

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