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ある哲学者が語る、子どもの私立中進学に反対する理由

我が家では今年息子が中学受験しました。現在、中高一貫校に通っています。

日本のある哲学者が子どもを私立中学に入学させることに反対する主張をしており、その理由について考えさせられるところがありましたので、紹介したいと思います。

その主張を簡単にまとめると次のようになります。

小さいときから、色々な人間がいることを体験させておいた方がいい。

人間との付き合い方がせまいサークル内でしか動いていないと、大人になっても、仕事の幅や深さがなく、まともな仕事ができない

日本の公立中学校には、トップの階級からそうでない階級まで多くの豊富な体験のできる家族が反映しており、ここを通過するかどうかは、子供が成長する過程では大きなポイント(中学までは、本当の階層は存在していないという)。

・大人になると「社会人」とは言っても、実は非常に小さなサークルの中で動くにすぎない

・だからこそ、子供時代は大切。いい意味でも悪い意味でもこのときにしか出会えない人間たちがいる。そういった出会いや経験が、社会人になったときに、その小さな世界を変える力になる。

・私立中学を出た人たちは、概念でしか「新しいもの」や「他者」がわからない。少数の人間の行動しか知らない。新しいことを言ってもやっても少しも新しくはない。

・人間は放っておいても階級的であり、社会人はもっと階級的。そんな事実を前にして、ことさらに中学生時代を階級的にする必要はない。

実は、この方は、大学入試を面接や論文などで人物本位に改めるのは大反対で、ペーパーテストやマークシートによる点数主義こそ平等な社会の源だという意見。

例えば、私立小学校の入試では、子どもが選ばれているのではなく家庭の階層が選ばれているようなもの、としています。

これに対し、公教育の課題は親の世代の階層を子どもの新世代においてシャッフルすることだといいます。

一度校門をくぐって、クラスの教室に入れば、子どもたちみんなが家庭文化格差と関係なく平等に扱われるのは、その教場における教育が「知識」教育だから。

社会の高い階層内にどれくらい多様な出自の「個人」が存在しているかという「多様性」(個人の個性的な多様性という意味ではなく)が重要だといいます。

私自身の仕事上の経験からは、人間の付き合い方が狭い人は仕事の幅や深さがない、というところは結構当たっているかなと思います。

業種や年次が異なる方と接すると、自分の住む世界の狭さを実感します。

私立中に行くと、公立中よりもはるかに同質性が高い、ある意味で「狭い」グループに属することになります。

これも間違いありません。

この哲学者のように、公立中への進学に積極的な意味を見出し、親として自信をもって公立中に子どもを進学させる、という考え方もあるとは思います。

私立中に進学することはメリットしかなく弊害やデメリットが全くない、とは思いません。

中学受験の過程では、点数至上主義に陥り、成績(偏差値)だけで人を判断し、また自分よりも成績が下の人間を見下すことがあるという弊害はよく耳にします。

どんなものにもメリットとデメリットは共存しています。

この哲学者は、公立中では、「トップの階級からそうでない階級まで」幅広い家庭があることを前提にしています。

首都圏では中学受験が「一般化」しているので、公立中は、私立中進学者がごっそり抜けた後の層によって構成されるということになってないでしょうか…。

だから公立はよくない、という話でもないのですが。

中学受験組が抜けた後の競争の方がある意味よっぽど楽とも言えるからです。

多くの時間とお金をかけて、あえて私立中に進学させる意味って何なんだろうか…、考えてしまいました。


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