好きなものにはピュアでいたい。

※この記事には、「スターにはなれませんでしたが」の内容が含まれています

大学の講義を真面目に受け、あまり良い成績は得られなかったものの、
先日しっかり単位を落としていないことを確認した。

春休みを過ごす中で、自分の生活に自分にとってちょっと大きな悩みを持っていた。

「あれ? 大学生ってこんなんだっけ…」

この悩みは結構私にとっては深刻で、ずっと思い悩んでいるところである。
しかし、この悩みを応急処置(今のところはそれよりもっと大きな処置である)してくれたのが、次の一文である。

「好きだなと直感した自分の感覚は、それは誰にどう思われようとも大事にしないと、自分の存在すら否定してしまうことになる。」

スターにはなれませんでしたが
佐藤 満春 著
KADOKAWA


現在、多様性の時代と称されるように、人間は様々な趣味嗜好を
持っている。

だが、必ずそこには多くの人が好くものがあり、それが世の中に席巻し、
「流行る」という状態が生まれる(当たり前のことではある)。
ここでいう「流行る」というのはあくまで多数派が好むもので、ニュースやSNSで取り上げられるものだけではない。

そして、流行する多くの物事は、私も属する「若者」と言われる集団であり、私は流行の対象であることは間違いないが、私はあまり流行っているものが好きにならないし、取り入れることなどめったにない。(決して悪く言ってはいない)

すると、私は多くの人々との「疎外感」を感じることになる。

多くの大学生はサークルに入っているが、私は入っていない。大人数が苦手だし、興味のあるサークルが見つかっていないから。

多くの大学生は友達や恋人と一緒に過ごすが、私は過ごしていない。友達作りに失敗したし、その延長と私は考えている恋人なんてできるわけなかったから。(延長と考えているのも臭いかもしれない。生まれて恋人なんてできたことないし)

多くの大学生は観光したり、飲み会とかに参加するが、私はそんなことしてない。観光に行くのはめんどくさいと思っちゃうし(普段からだらしない)、飲み会するような機会なんて得られたことない。

多くの大学生は、インフルエンサーや、SNSでバズる料理が好きだが、私は好きではない。それらを好きになる受容器がないから。

このような事象を、子どもの頃から経験し、疎外感を感じていた。

また、小学生の頃はそんな自分を周りの人たちは認めていた(少し無骨な言い草かもしれないけど)気がするけど、中学3年くらいになってからその環境か一気に変わり、疎外感が誕生していたと今ふと思う。

私の疎外感を、この一文が変えてくれた。

私は好きなことに対して、純粋無垢に子どもの頃の気持ちで良いんだなと思わせてくれた。本当に好きな一文である。

私の趣味は、父(私に最も近い人)は良く思っていない。確かに父は父親として尊敬できるけど、私が中学生の頃から好きなコント師をテレビで見ると「全っ然面白くない」と呆れた口調で言うし、好きなタレントが出ているテレビを観ている自分に「こんな人好きなの?」と吐く。

なるほど、だから疎外感に敏感なのかもしれない。

この一文を読んで、私はそんな父の吐く言葉を気にしないことにした。容姿や学力はそっくりだけど、趣味嗜好に関しては真逆だ。

また、私の趣味は多数派ではないのは十分理解している。今までこのことをコンプレックスにしてきたけど、これから他人の、言い換えれば多数派の趣味を、多数派という事実に関して気にしないことにした。

この一文を読んだ後、私は清々しかった。

そんな晴々とした気持ちで本日を迎え、リアルタイムで観られなかった
「キョコロヒー」をTverで観た。

私の趣味嗜好はおじさんに近いと思う。これは大人ぶっているのではなくて事実として。
錦鯉渡辺さんの銭湯でひとっ風呂浴びて居酒屋で飯を食う姿が素晴らしい。
そして私は日向坂の齊藤京子さんが大好きだし、ヒコロヒーさんの話される内容も好きである。

たまらなかった。

もちろん、私の趣味を身近な他人には強要しないが、
なるべく身近な人に話すことも聞かれたときだけにしようと思う。
多数派でないし、わかる人も多くはないだろうし。少なくとも自分の近いコミュニティでは。

たまに理性が消えるほど自分の好きなことを話したくなる感情はあるけど。


好きなものこそ自分を保って正直でいようと思った。



そんなこんなで自分の好きなことに対して純粋でいようと思った一文を引用し、文章を書きました。

この一文が著者にとってどのようなものか、少なくとも僕は正解がわかりません。私が感じ取ったものをもとに書きました。

そして、趣味を分かり合える、共有できる方々、これから、又はこれからも、よろしくお願いします。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?