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伏見と酒の一三世紀

昨日の「龍馬伝」じゃないけど、今日は伏見について。

酒呑みならば藏にこだわる酔客もおられる。灘や越後、みちのくに夢心地を求める方も多い。伏見もそのひとつ。今回は伏見の酒について、シラフで記す。
ところで伏見の酒造はいつからだろうかと、考えたことはござらぬか?
今から遡ること一三世紀。だいたい八世紀くらいが平安時代。平安宮(大内裏)内にあったのが、造酒司(みきのつかさ)。酒・酢などを製造して儀式・饗宴に供した官衙とされる。 現在の京都市中京区丸太町通七本松西入北側(京都アスニー内)あたりにあったもので、昭和五二~五三年に発掘調査を行なった。ここの高度な酒造りの影響を受けながら、伏見の酒は進歩したと考えられる。また、伝承になれば五世紀あたりに秦氏の酒造技術を継承したともいわれるが、まあ、八世紀あたりだろうと考えるのが無難か。平安京に近く水が豊富な伏見は、酒造に適していたと思われる。
平安貴族が飲んだ酒は、今日で云う銘酒と違うと思う。
延長五年(927)制定の『延喜式』によれば、「宮中造酒司」の条文がある。ここに、酒の種類や仕込み配合等が詳しく記述されていた。なんと、15種にわたり酒造の製法が記されていたし、その種類ごとに用途も定まっていた。全部試しのみできた呑兵衛貴族はいないだろう。
 
大伴旅人の歌がある。
  験なき物を思はずは一坏の
      濁れる酒を飲むべきあるらし
 
奈良時代より基本的には、にごり酒が広く愛されていたと思われる。
時代は移り、鎌倉・室町。応永年間の酒屋名簿によると、京の洛中・洛外には三四二軒の酒屋が存在し、その中に伏見の酒屋も含まれていることが明記されている。丁度、室町中期のことで、土倉や高利貸などが台頭した時代。飢饉に苦しめられた庶民の一揆もはじまる頃だから、酒造蔵は打ち壊される危機を常に意識したことでしょう。
豊臣秀吉が聚楽第から伏見城に移ると、大規模な都市計画で城下が賑やかになる。慶長四年(1599)の『多聞院日記』(奈良興福寺塔頭多聞院で代々記された日記)巻四五によると
 
  伏見ヨリ五明二本来了、伏見酒二駄遣之、賃一斗四升遣之
                 (慶長四年正月二五日条)
 
おなじく『多聞院日記』巻四五に
 
  甚八伏見迄同道、之酒買可申候、一斗二付三匁ツゝ、
  常如院ノ酒一斗取候て遣候。呑クラへ申候、二色ニ取可申候
                  (同年二月朔日条)
 
などと、「伏見酒」「伏見樽」などの名称が窺える。
天下泰平の江戸時代になると、伏見の酒造蔵の数は八三件、これは明暦三年(1657)の数字。しかし、鳥羽伏見の戦いで街は戦火に焼け、伏見の酒は危機を迎える。伏見の老舗酒蔵のひとつ笠置屋は、奇跡的に戊辰の大火を免れて明治期以降の伏見酒を支えた。旧大名の屋敷地なども酒造のために用いられたので、土地は確保された。

伏見と云えば坂本龍馬と寺田屋事件。お龍が駆け込んだ薩摩藩伏見屋敷の跡地には、月桂冠関連会社の松山酒造(大正一二年創業)が蔵を構えた。一度酒造としての生産を終えたが、二〇二三年正月から酒造り復活。あたらしい銘柄「十石」が誕生している。

伏見の酒は過去から現在、そして未来に繋がっていく。
いやや、たまるか。
ちくと伏見まで、一杯やりに行きたい気分になったがじゃ


この話題は「歴史研究」寄稿の一部であるが、採用されていないので、ここで拾い上げた。戎光祥社に変わってからは年に一度の掲載があるかないかになってしまったので、いよいよ未掲載文が溜まる一方。
勿体ないから、小出しでnoteに使おう。
暫くはネタに困らないな。
「歴史研究」は、もう別のものになってしまったから。