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《天命記Ⅴ》~嵯峨野小倉山荘色紙和歌異聞~五十三の歌 

《天命記Ⅴ》 原作:右大将道綱母
人妻のウチをこないに嘆かせるアンタは罪な男(ひと)や。
隣に寝てるこの子かて、ほんまはアンタの……。
夫は今夜もいない。アンタをひたすら想う。
左の乳房を揉みしだき、凝った乳首をねじり絞れば
女の肉(み)の熟れて張りつめた身体に
痙攣がはしる。
……夜明けまでは、まだ、永い……。

<承前>
 定家が色紙を手にして膝行して式子ににじり寄ろうとすると、式子は突然、スッと立ち上がり、定家の手から色紙を取り上げた。そして、定家の耳元に紅をひいた唇を寄せ、「この歌はだめでございます。これは罪深き女の歌、良き殿御のお眼に触れてはならぬ裸形の女の姿」と囁いた。式子の衣に燻きしめられた蓮の花を思わせる荷葉の香りが定家の鼻梁をうった。
 陶然とする定家を置いて、式子は濡れ縁に歩み出た。戸外では月の光が舞い下り、きらきらと庭園の白い玉砂利と戯れている。式子はそれを見届けると定家を振り返り、笑みを浮かべた。瞳に月明りの輝きが残っていた。そして、意を決したかのように長い黒髪をふわりと振り散らすと式子は階を降り庭に歩みを進めた。
 定家は慌てて濡れ縁に向かった。月の明かりに浮き立つように式子は庭の中で袿を脱ぎ始め、ついには白子袖と緋袴の姿となった。
「定家様、式子は今から胡国の舞姫となりまする」
池の水際に立ち、式子は扇子を高く掲げた。
「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき 物とかは知る」
朗々と謡いあげると、一閃、式子は激しい旋回演舞に入った。白い袖が翻り、碧の黒髪が空を舞い、風を立たせて式子の身体に絡みつく。緋色の袴の裾が式子の両脚の蠱惑の律動を伝えていた。
♫ 君は来ず。淋しさのみ、唯、来たる。来たれば、妾は嘆き哀しみ、一夜を過ごす。夜明けは遥に遠い。君は知るや、その永さを。君は知るや、その永さを ♪♪
謡いは悲歌となった。
 急調子に廻る式子は両腕を天に差し伸ばし、何かをつかみ取らんとばかりに見上げる。途端に両腕は水平に開きこの世の業辱を難じた。更に、式子の旋舞は波乱を抱いたまま続く。
 移ろう月のしばらくに、喘ぎ、慄く式子の身体は地に崩れ、膝を折り、地獄を覗く姿をみせた。
 定家はただ式子の踊り狂う様を見つめるばかりだった。
<後続>


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