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感染症からの学び【ペスト①/カミュ】
ペスト大分読み進めることができています。
噛み応えのある文章と言えばいいのか。何度も繰り返して読むことで理解するのか、分からなかったら元に戻るという読み方をしています。
そうして読んでいるとときどき気になるテーマのようなものに出会うことがあります。今回も私が特に普段から大切にしていることがテーマとなって物語に出てきました。
ペストという流行病がだんだんと世に知れ渡り、人々が混乱へと落ちていく過程で、牧師さんが大々的に説教(教えを伝える)をするシーンが出てきます。
神はあなたがたともっと長く面接することを望んでおられたのであります。それが神のあなた方を愛したもう愛し方であり、また実を言えば、これこそ唯一の愛し方なのであります。
面接というのは余地なのかもしれません。なんの面接なのか?それはペストという災害を被るのか、それともそうでないのかということ。なのかもしれません。
人間は、行ったことが結果として現れます。例えば、唾を上に吐けば自分に降りかかるように、人々がした『何か』が災害を起こす結果となったのかもしれません。
つまり、神が我々を見ていて、いやこれではいけないなと『ペスト』を流行らせたということ。
牧師さんはこういうことも言っています。
皆さんを苦しめているこの災禍そのものが、皆さんを高め道を示してくれるのであります。
つまり、ペストというこの災難こそが、私たちを導いてくれるということを話しています。
どういうことなのか?
例えば、日本でも地震が起きます。実際に起きると、亡くなる方もいるし、あるいは生き残ってでも苦しむ方もおられます。
物質的だったり、精神的だったりするでしょう。
でもそうなって初めて気づくこともあると思います。例えば、『助け合うこと』だったり、『身近にいる人の大切さ』やあるいは『日々の何気ないことへの感謝』だったりします。
でも本当は、その人当人にしか分からない『何か』があるのだと思います。
この『何か』については、今のところ差し迫って示されていません。これは、登場人物一人一人にとっても違うでしょうし、我々一人一人にとっても違うと思います。
私にとっては、どうなんでしょう。
もし今、ペストになって日に百人もなくなってしまうとなると、周りのことを心配してしまいますね。普段なら、ちょっとしたことで「ケッ!クソ!」と思ってしまうような人にまでも「大丈夫かな?」と心配してしまいます。
もし亡くなってしまったならば、あの時もっと優しくしてあげればよかったのではないか?と後悔することも出てくると思います。
毎日、買い物に行けたこと、仕事に行けたこと、友人と会えることそれらすべてが『有り難い』ことだったのかな。と心から気づけるかもしれません。
説教はもっと深く、素晴らしいものでした。牧師さんが、「わたしからは懲戒の言葉だけではなく、また心をなごめる生気をも持ち帰っていただきたいとおもいます」と圧巻の締めくくりをした後。情景が浮かぶ文章がつづられています。
人々はパヌルーがいうべきことを終わったと感じた。外では、雨はやんでいた。水分と日光の入り混じった空が、ひときわ若々しい光線を広場に注いでいた。街路の方からは、人声や車馬のきしめきや、再び活動しはじめた町のいっさいのさざめきが上がってきた。聴衆はかすかにざわつきはじめながら、そっと身の回りのものを集めていた。
とてもその情景が浮かんでくる、いやそれを超えてヒタヒタと垂れる水、湿気、水たまりのなかを陽の光がゆらゆらとしているところを実際に感じられるようです。
文学にはこういう楽しさもあると思う。文章の美しさ。素敵な言い回し。すごく情景が思い浮かべることができます。
これが芸術なのかもしれないと思いました。
今まで私がこのんで読んでいたストーリーがあるエンタメ小説(いまやひとくくりにはできないが…)とは違って、文章を読ませるという感じがあります。
読書初心者が言うのはおこがましいけれども、なんだか地道にここまで読んできたが、何となく文学の楽しみ方が分かったような気がしています。
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