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素直な気持ち

前回の続きです

私は、小さい頃から母に「早く早く」「早くしなさい」と名前よりも沢山言われていました。
悲しかった…
名前を呼んでほしかった…
でも必死にガンバった
まわりの子と同じようになれるように
でも…
中学生になっても
高校生になっても
ずっと言われ続けた
辛かった
どうして私はみんなと同じように早くできないんだろう?
悩み続けた
小学生のときに友達に理不尽なことを言われてから人間不信になって人が怖くなった。
友達を作るのが怖くなってしまった。
だから昔からの友達はひとりもいない。

高校生になって通学するのが心身ともに辛くなって退学したいと母に伝えた。
でも、「高校くらいは卒業しなさい」と言われなんとか思いとどまった。
やりたいことや将来の夢や希望もなく、進路のしの字もないくらい生きていることがやっとでしんどかった。
誰も私のことを知らない所へ行ってみたいとか今考えたら当時の私にはそんなことしか思いつかず、本心だったと思う。
北海道の牧場で働こうかなと担任の先生に相談したら、「今は狂牛病で大変だから行ってもしかたない。大学行かないともったいないよ…」と言われ大学を受験した。
合格通知が届いても「誰のだろう??」という気持ちのまま入学した。

高校3年生のときに精神科を受診して、お薬を飲んだりしても?って感じで、原因わからないのでいくつもの医療機関に通院した。
医療機関でもいっぱい傷ついた…
医師以外にも医療関係者のなかには心ないことを言ったり行動するひともいる。
10年くらい経ったときに新しい医療機関で母にある検査を勧められて受けてみた。
5時間にも渡るしんどい検査。
数週間後、検査結果は【広汎性発達障害】だった。
結果を聞いて楽になるひともいるけれど、
私にはめちゃめちゃ辛かった。
「生まれつきのものだから上手く付き合っていこうね!」と言われたけど、
私は思わず「治らないんですか??」と尋ねた。
「そうだね~」
愕然としてなんとも言えない絶望感。
当時の私は、二次障害的に【強迫性障害】も患って苦しかった。
不潔恐怖や確認行動。
日に日に酷くなって入院もした。
線路に飛び込んだこともあったし、道路に飛び込んで通りがかりのお坊さんに助けられたこともあった。

当時の私は、「どうして生まれてきたんだろう?生まれてきたくて生まれてきたのなら死にたくなったらしんだっていいやん。お母さんどうして私を発達障害に産んだの??」

1番言ってはいけないことを1番言ってはいけない母にぶつけしまった…

母は私と弟を産んだ産婦人科へ父と一緒に病院へ行って話をしてきたとあとで聞いた。

………………………………【中省略】……………………………

4ヶ月前に母が闘病の末にこの世を旅立った。母の希望でもあった自宅での家族の看取りができた。
「母は精一杯生きた!」
亡くなった当時はそんな風にしか感じていなかったのに、3ヶ月前くらいからものすごく寂しさがこみ上げてきた。
涙が止まらない…💦

そんなとき…
私のお店のお客さまからのとあるDM
かわいい写真にかわいい文字で綴られた1枚の画像と「インスタのストーリーに載せてもいいですか~??」という優しいメッセージ💗
私は嬉しすぎて🥰
よし!!と自然とやる気が沸いた✨

お客さまに救われた💗
そう感じた💐

私は今、母が残してくれたミシンで作品を紡いでいる
ミシンで制作しているときは、まるで母がそばで見守ってくれているように感じるようになった。
少し寂しさが和らぐ時間を大切にしよう。

さっきまで泣いていたけれど
これを書いている間に不思議と涙が止まっている。
書いてみてよかった!

今日はここまで








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