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鬱病、後輩の音楽を聴く

子どもの頃、母に無理を言って音楽を習わせて貰っていた。唯一の習い事だった。

音楽を習いに来るのはやはり経済的に余裕がある家庭の子どもが多い。貧乏母子家庭だった私は毎回同じ服装でレッスンに通っていたので、外車を収める一軒家でボルゾイを散歩させるような家庭の私立校の子ども達にいじめられていた。しかし、勉強にしろ芸事にしろ、実力さえあれば相手をねじ伏せられる世界は嫌いではなかった。意地悪な同期が悪質ないじめに勤しむ時間で、私は独り練習に励み、着実にソロパートや選抜メンバーに選ばれるようになった。

最初何年かは孤独に耐えていたが、先輩の立場になれば、容姿や実家の太さに関係なく、音楽を愛し、努力を惜しまない健気な後輩の良いところを見いだし、共に成長するようになった。死を悼む曲を扱った時は小学生には理解が難しいようだったので、哀しむわけでも喜ぶわけでもない感情をできるだけ平易に伝えたり、曲に原作の詩がある時は、なぜeventuallyでもafter allでもなく、finallyなのか説明して、"結局"という日本語訳の裏に潜む前向きな解放感を説明したりした。大切な思い出である。

そんなこんなで私には、今でも東京藝大の学生や帝国劇場の役者、はたまたバイオリニストなど幅広いジャンルで活躍する後輩達がいる。高校を卒業してからは音楽の道に進まなかった私だが、未だに彼ら彼女らは舞台や演奏会に呼んでくれる。良い子ばかりだ。後輩には優しくするもんである。まじで。

後輩の音楽を聴きに行くと、その人となりの成長ぶりに感動する。最近のコンサートでは挑発や軽蔑、嘲りといった本来人間が隠すべきであろう感情を曲に載せて表現していた。私が共に音楽をしていた時は喜怒哀楽が関の山であったのに。そういえば本来隠すべき感情を表現する音楽家に初めて感銘を受けたのは、マリア・カラスのハバネラを聞いたときだ。この人に嘲笑されたい…!!と未知の扉が開きそうなくらい衝撃を受けた。

とにかく後輩の人間としての成長や表現者としての能力をメキメキと開花させている様子に胸が熱くなる。何より、彼ら彼女ら自身がとにかく楽しくてたまらなそうな瞬間にアラサー鬱病ニートは泣きそうになる。技術こそ最早私には言語化できないほどに洗練されているが、好きなことに打ち込む瞬間の表情や、十数年前から聴き馴染みのある声質は変わらない。帝国劇場の最後尾に座ってからオペラグラスを忘れたことに気づいて後悔した時も、顔が見えないほど小さな遠くの役者が一文字歌った瞬間にすぐにあの子が後輩だとピンときた。

舞台後に楽屋を出入りするお洒落な関係者に人見知りをしながら、こっそり差し入れを渡しに行くと「来てくれたんですか!ありがとうございます!!嬉しいです!!」と舞台とは一変して小学生の頃から知っている無邪気な笑顔を見せる。かわいいかよ。

「本当に楽しそうに演奏するね」といろいろ考えすぎた結果一周回って平凡になった薄い感想を伝えると、後輩は照れながら「そう見せるのが仕事ですから」と答える。なるほどなと感心して言葉に詰まった。照れ隠しかもしれないが、一方でお金を払ってくれる人に対して自分が心から楽しいと思うものを提供するのがプロなのかもしれない。いつまでもかわいらしい後輩は、誰よりも自分の好きなことに忠実なプロフェッショナルでもあった。やれやれ、私が休職した会社の人間達に聞かせたいものである。出世と金のことしか眼中にないから、仕事への純粋な好きの気持ちなんて一欠片もないだろう。哀れな連中である。そんな奴らに思考を犯されながら、大好きな仕事を健気に頑張っていた自分を抱き締めてあげたいぜ。

かわいい後輩たちがこれからも好きを追い求められますように。そんな後輩たちを陰ながら細く長く応援できますように。

カルメンのことを思い出したら、無性にスペイン風オムレツとパエリアが食べたくなった。誰か一緒にスペインバル行ってくれないかなぁ。

明日も自分に優しくできますように。


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