見出し画像

鬱病、メンターにモヤモヤする

大学時代にアメリカで生活し、その文化圏になんとなく組み込まれていた数年間がある。未だになんと説明すればよいかわからないのが、メンター制度だ。

社会的に成功していると見なされた40~50代前後の大人達が私のメンター(mentor)となっていた。すなわち、私がメンティー(mentee)である。メンターになる儀式や取り決めなどはなく、2人してnetworking dineerに参加した際、メンターが私のことを「私がこの人を数年間メンタリングしてるんです。」とシャンパン片手に赤の他人に紹介していた時に「あ、私はメンティーだったのか」と知った。

メンターとの関係を何も知らない日本人の友人に説明するのはなかなか難しい。まず、先輩とは違うのだ。同じ組織に所属していないし、技術的に可能なことも職業もまるで異なる。完全にプライベートで構築される関係だ。しかしながら、決して友人とは呼べない。メンターとメンティーには確実に上下関係が存在している。

私なりに定義しようとすると「メンターがメンティーを導く代わりに、メンティーを育てる経験を得る関係」である。自分で言っててもよくわからない。

もっとざっくばらんに言うと、目がキマッている人間達はMentoringをしている。意識が高く、人生の主導権を握っていそうな人は大抵誰かのメンターであり、メンティーである。故に、私はメンター制度が苦手なのだ。仲が良いと思っていた目上の方が、我々の関係を突如メンターと形容しただけである。

日本には、プライベートにおいて人生の指針や仕事の技術的ではない悩みの指南役がいるのだろうか?そんな人をどうやって呼ぶのだろうか。

私のメンターの厄介なところは、陰キャの塊である私を立食パーティーに引きずり回す上に、常に悩みがあるはずだという仮定で私の全てを暴こうとし、自分は全ての解答を知っているかのように上から目線でアドバイスをするところだ。プライベートでまで上下関係を意識させられるのには参った。もちろんメンター達から頂いた機会は雲の上のような世界で、そんな人達と関われたことを有り難くは思っている。しかし、その回数が増えるほどに、心の中で疑念がどんどん大きくなっていた。

英語には敬語がないから、そのような制度を意識的に作って、自分が崇められていると思いたいのだろうか。誰かを教えている、誰かを育てている、誰かを導いているという感覚は、何が欠乏している人間に必要なのだろうか。それらがないと不安になる社会は日本と何が違うのだろうか。

外資系はフラットであるなどとはよく聞くが、自由で実力主義であるはずの国でメンター制度に振り回された経験のある私は、かなりその事実に懐疑的である。平日はフラットぶっていても、休日に未熟な後進達を導く姿がなんとなく思い浮かぶのだ。

業種や専門領域、年齢や性別が異なる人間と交流するのは興味深い。が、そこに上下があると幻滅するのだ。私だけなのだろうか。

明日も自分に優しくできますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?