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地味に重要 神戸事件 滝善三郎が日本を救った

皆さんは幕末に起きた神戸事件をご存知ですか?
 
ほとんどの人が、知らないと言うだろう。
教科書にも載っておらず、地元の神戸でも知る人は少ない。
 
しかしこれは地味に重要な事件なので、ぜひ知ってほしいと思う。
 
事件が生じたのは、慶応4年1月11日。
グレゴリ歴に直すと1868年2月4日だ。
 
この日、日本史においては何時代にあたるでしょう?
 
江戸幕府は1867年11月に大政を奉還しているので、幕府はもう存在していない。
しかし明治時代でもない。明治に改元をしたのは1868年9月だ。
つまり江戸時代でも明治時代でもない、非常に微妙な時期に、この事件は発生した。
 
この1週間前に鳥羽伏見の戦いがあった。
新政府はまだ京都あたりにしか存在していない小さな政府だったが、強大な幕府軍と戦い勝利を収めた。
徳川慶喜が大阪城を脱出して江戸へ逃げ帰ったが、新政府軍と旧幕府軍との戦いはまだ始まったばかりだ。
 
鳥羽伏見の戦いの後すぐ、新政府は備前藩に西宮へ出動するよう命令した。
 
尼崎藩がまだ徳川方についていたので、それを牽制する意味で西宮警護を命じたのだ。
備前藩の兵隊は西宮に向かうが、その途中に神戸があった。
神戸はこの1か月前に開港したばかりだった。
 
1858年の日米修好通商条約に基づき、兵庫が開港するはずだったが、横浜が早々と開港する一方で、兵庫の開港は遅れに遅れていた。
なぜなら兵庫は京都に近く、天皇や公家は外国人嫌いなので、開港の勅許がなかなか降りなかったのである。
 
幕府の粘り強い働きかけと、情勢の変化もあり、ようやく勅許が得られた。
しかし、開港したのは兵庫ではなく神戸だった。
 
兵庫は古来からの港町で、そこにいきなり外国船が入ってくると混乱やあつれきが生じることは目に見えていた。
それで、兵庫の東に隣接した神戸村という寒村に目が付けられた。
そこも兵庫だと理屈をつけ、港を整備して外国人に開放することになったのだ。
 
こうして東は生田川、西は鯉川、北は西国街道、南は海で区切られた一帯が、外国人居留地として造成された。
 
徳川幕府は諸藩に、行列を組んで移動する際、神戸の近くでは西国街道を通らないように命じていた。
開港したばかりの居留地の近くを行列が通ることで、さまざまな無用の混乱が生じることが懸念されたからだ。
 
幕府は西国街道の代わりに、神戸の辺りはバイパスを整備し、そこを通るように通達していた。
そのバイパス道を、徳川道と言った。
しかしそれは六甲山地を縦走するという、信じられないくらい過酷な登山道であった。
 
備前藩の行列は地元岡山から尼崎を目指したが、それは新政府に命令されての行動だった。
この時幕府は消滅していたので、通達は無効だと考えられた。
それで過酷な徳川道ではなく、西国街道をそのまま東へ進んだ。
 
そして事件が発生した。
今の神戸大丸の東側、トアロード出入口のはす向かいに三宮神社という小さな社があるが、その前の道路は昔、西国街道だった。
(ちなみに三宮神社は、三宮という地名の由来となっている)
 
西国街道を備前藩の兵隊が列を組んで行進するのを、居留地の外国人たちが物珍しさに見物していた。
この時、フランス人の水兵2人が行列を横切ろうとした。
 
行列を横切ることは「供割(ともわり)」といい、当時の慣習では大変無礼な行為でその場で切り捨てられても文句の言えない行動だった。
 
水兵たちが近づいてきた時、部隊の隊長であった滝善三郎(たきぜんざぶろう)という人物が、「やめろ、やめろ、近づくな」と言ってやりで静止しようとした。
 
しかしフランス人には言葉が通じない。
制止を振り切って横切ろうとしたので、滝はやりの穂先とは反対側の部分で水兵たちを突いた。
 
彼らの一人はやりで突かれたことで侮辱されたと感じ、顔を真っ赤にして家に戻り、ピストルを持ち出してきた。
「俺たちを侮辱するとただではすまないぞ」という脅しだったと思われる。
 
しかし滝は、相手がピストルを持って出てきたことに驚き、「鉄砲、鉄砲!」と叫んだ。
その意図は、「鉄砲を持っているのでこいつには気をつけろ」というものだったが、発砲命令が出たと勘違いした鉄砲隊は、前に出て発砲してしまった。
 
それに応じ水兵たちも発砲し、射撃戦に発展した。
これが神戸事件の始まりだった。
 
この出来事を遠巻きに見ていたある人物がいた。
ハリー・パークスというイギリス公使である。
 
パークスは遠くから見物していたが、自分の目の前で射撃戦が始まったことに怒り狂った。
そして沖に停泊していた各国の艦船に非常信号を出し、上陸するよう命令した。
 
イギリス公使は当時、欧米列強の公使たちの中でも群を抜いて存在感があった。
日本相手の外交を一手に取り仕切っている感があり、しかもパークスは癇癪持ちで知られていた。
 
イギリス公使の威光は大したもので、各国の船に待機していたイギリス、アメリカ、フランスの水兵たちが一斉に上陸してきた。
そしてパークスの指示のもと、神戸の主だった場所が占領されていった。
これは日本の国土の一部が、初めて外国に占領された瞬間だった。
 
備前藩の兵たちは、生田川を挟んで外国勢と射撃戦をしていたが、やがて撤退命令が出たので去っていった。
結局死者は一人もおらず、少数の負傷者が出ただけで終わった。
 
備前藩の鉄砲隊は空に向かって撃ち、威嚇射撃をしていたのだという意見もあるが、外国人たちは水平射撃をされた主張した。
いずれにしろ、神戸が占領された状態となった。
 
この事件は、どのように解決されたのだろうか。
 
パークスを含め列強の公使たちはそれまで、徳川幕府を日本の代表として交渉相手にしてきた。
しかし幕府にしてみれば、「そんなもん知らん知らん」ということだろう。
備前藩に出動するよう命じた覚えはないし、徳川道を通れと言っていたのに西国街道をそのまま通ってくるし、新政府に命令されてやったんであれば新政府が責任を取れ、ということだった。
 
パークスはこれより前、大阪城にいる徳川慶喜と共にいた。
鳥羽・伏見の戦いが続く間は、大阪の沖合いに浮かぶ艦船で待機をしていたが、旧幕府軍が新政府軍にやられて江戸に帰る状況となった。
 
旧幕府側は外国の艦船に対し、安全を保証できないと通告をしてきた。
 
それでパークスらは開港したばかりの神戸の方が安全と判断し、そちらに向かった。
そこにはできたばかりの居留地があり、滞在するのに都合が良かった。
そしてこの滞在期間中に、事件が発生したのである。
 
新政府は幕府に代わって日本の外交を担うとの気概があったので、この事件の解決に名乗り出た。
 
新政府の後ろ立てとなっている朝廷は大の外国人嫌いで、それまで異人どもを日本に入れるなと主張する者たちだったが、彼らは神戸が占領されたと聞いて震え上がった。
幕府軍にせっかく勝ったのに、それよりはかに強大な外国勢を相手にしたら、自分たちの住む京都だけでなく、日本中が占領されてしまう。
そういう現実的な恐怖を、彼らは初めて感じたものと思われる。
公家たちは「穏便にはからえ」と、新政府要人たちに伝えたことだろう。
 
新政府は公家の東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)を代表として折衝に当たらせることにした。
この時初めて、新政府が樹立されたことを公式に各国に知らせた。
だが、交渉は日本側が最初から全く下手に出るものだった。
 
各国の要求は再発の防止と責任者の処罰だった。
処罰というのは死刑のことである。
死者は一人もいない事件で死刑に処すのはあまりにも過酷だが、日本側は受け入れざるを得ないと判断した。
 
交渉の実務にあたったのは伊藤博文だった。
後に総理大臣となる有名な人物だが、この時まだ26歳の若造である。
イギリスに留学した経験があり、多少は英語を使えるということで、生半可な英語で交渉に臨んだ。
 
伊藤は、ここで外国の度量を示すためにも減刑するのはどうか、と言ったようだ。
列強の中にも、減刑しても良いのでは、という意見もあった。
しかし最終的には、隊の責任者だった滝善三郎が切腹をすることで解決が図られることになった。
 
場所は永福寺と決まった。
この寺は空襲で焼かれて今はない。
 
切腹の場面を、各国代表の7名が立ち会って検視した。
滝は外国人たちを前に、「元々はあなた方が日本の法を守らなかったのが原因だけれども、事件の責任を取って私は切腹いたします」と述べ、古式に則った完璧な切腹をした。
滝の一番弟子であった人が介錯をした。
 
外国人たちは初めて見る切腹の場面に、感銘を受けたという。
そこに居合わせたイギリス外交官ミットフォードが、この場面を詳細に書き送ったことで、本国ではセンセーションが沸き起こった。
日本の武士道や切腹が、初めて海外に知られた事件だった。
 
すぐ後に、堺事件という似たような構図の事件が生じた。
その時は外国人に死者が多く出たことで日本人20名が切腹することになり、その時も外国人たちが検視のために立ち会っていたが、11人目の切腹が終わった時に「もういい」となり、9名が助命された。
 
神戸事件の意義としては、欧米列強が初めて江戸幕府ではなく明治新政府を日本の交渉相手として認めたこと、もう一つは攘夷に凝り固まる朝廷を一気に開国和親へと方針転換させたことにある。
 
滝が一人で罪を背負うことで、外国の占領を避けられたとも言えるが、この事件は徹底した緘口令、つまり口封じが敷かれた。
事件の詳細が知られると、国内で外国に対する怒りが一気に沸騰して収拾がつかなくなることを新政府は恐れたからだ。
神戸事件は、闇に葬られた事件となった。
 
それもあり、今でも国民の大多数が知らない事件となっている。
歴史の教科書にも載っていないままだ。
 
備前藩は事件後、滝家を徹底的に保護した。
善三郎は死んだ時32歳の若さで乳幼児の娘がいたが、その娘にも石高を与えた。
 
その娘を祖母とする滝家の末裔にあたる人物が岡山県におり、滝善三郎を忍ぶ会を立ち上げて活動しておらえる。
その様子は、YouTubeで見ることができる。
 
現在三宮神社には、神戸事件を説明する案内板と、当時の大砲のレプリカが展示されている。
 
 

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