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20代で会社員を辞めてテニスプレイヤーに⓵

Noteに記事を書き始めた理由


SNSで自分をさらけ出すのは苦手。勝手に裏で誹謗中傷されている被害妄想をしてしまうのですが、やっぱり自分の考えを誤魔化さず伝えられるようになりたいと思い、そして現在体調不良で寝込んで何もできないこともあり…投稿します。
昔はモバゲー(古い)で日記書いたりもしてたんだけどね(笑)
あわよくば読んでくれた人に勇気を与えられたら嬉しいです。

軽く私の自己紹介


自分でも超変人な事は自覚していますが、20代にして年収2000万円を達成したものの、会社を辞めて12年ぶりにアマチュアテニスプレイヤーとしてジュニア時代ぶりに選手復帰しました。元々やりたい事がなかったので有名企業で稼いでみたいという理由だけで特に興味のない業種で働いていました。インセンティブ制だったのと初任給が他の会社より高かったので3年くらいで辞めるつもりでひとまず…
特にやりたいこともなかったので気づいたら7年働いていましたが…

退職する時は「そんな良い企業辞めない方がいいんじゃない?」と周りからは言われましたが、別にタワマンに住みたいわけでもない、ブランド物が欲しいわけでもない。(3、4年目の時は毎月伊勢丹で買い物していた。)
好きでもないITの仕事に愚痴を溢して溜息をついてるくらいなら、今しかできないことをしたい、ずっと心に引っかかっていた後悔をそのままにしたくないと思い、自分でも信じられないような決断をしました。
ずっとずっと人目を気にして、多数の人が良いと思う事、親がいいと思う事を選択してきた自分とも決別したかった…

テニスとの出会いから中学卒業までの私について


テニスの話に入るが、4歳から母親の影響?でテニスを始め、入会したクラブには選手育成コースがあったため、それなりに向上心の強かった私は小学2年生で選手コースに入った。当時は週2回くらいの練習だったが、小3か小4くらいからは週4回の練習になり、小4で試合にで始めると、週5、6回は練習するようになった。元々、テニス部だった母親は学校の部活で少しテニスが上手いといいかな程度で始めさせたらしい。13歳くらい迄はプロテニスプレイヤーになりたい、絶対全日本ジュニアに出るんだ!と意気込んで、県ジュニアでは決勝に進むそれなりに県のトップ選手に成長していたため、周囲のプレッシャーも感じながら、県ジュニアの前の1週間は1週間後いったい自分はこの大会が終わった頃、生きているのだろうか死んでいるのだろうか?と考えるほどテニス=人生だった。

それくらいテニスで成績が出ないと人生終わると子供なりに思いながらも、コーチの事は大嫌いで毎日練習に行くのが苦しくて苦しくて仕方なかった。今思えば、よくドラマに出てくるパワハラ上司のような言葉を毎日かけられ、睨みつけられながら、嫌味たらしく「真面目だからダメなんだ」「3流プレイヤー」「なんでバックハンドができねーんだよ!」と毎日毎日3時間近く罵られていた。あー、きっと私の事が気に食わないんだろうなと思いつつも(全員に対してそんな感じの態度だったからみんなテニスは辞めてしまったけど)2、3年は耐えて毎日練習をサボらず行っていたが、徐々に終わりの見えないトンネルに耐えられなくなり、中学生の途中からは夕方になると気持ち悪いですと行って保健室に寝に行ったり、トイレで泣いていた。

私の所属していたテニスクラブは県の中では最も強豪であり、そもそも住んでいた場所も駅がないくらいの田舎だったので、所属クラブを変える選択肢がなかった。今だから分かるが、そのコーチ自体はテニスは上手くなく、知識もないので早々に辞めるべきだった。
(このクラブは姉妹校がいくつかあり優秀なコーチはもっと都会の方にいた)

テニスの戦績が出ない時は両親からも「勝てないなら勉強すれば」と小言を言われるため、唯一学校が楽しい場所であり、明るくふざけていると「お前は毎日楽しそうでいいなぁー」なんて言われていたけど、練習に行くのが本当は物凄く辛いとは誰にも言えず何故か1人で抱え込んでいた。明るく振る舞うのは実際はストレス発散で辛い事を誤魔化すためにやっていた。テニスが楽しいか?と聞かれると本音とは裏腹に「楽しいです!」と答えていた。小学咳の時から既に弱音=弱い人間と考えていたのだと思う。

そして中学生の途中からは全日本ジュニアを目指していたところから段々と高校に受かるためのテニスだ、高校に入れば部活でテニスができると思い、
両親から勧められた高校に入るためだけに練習に行った。基本ジュニアテニスの世界では県の上位ジュニアは必ずと言っていいほど偏差値関係なく強豪校に進むが(私の県は当時そうだった)、うちの両親は良い大学に入ってそれなりの企業の人と結婚しなさいというThe昭和の考え方だったため、偏差値の高い某私立高校が第1志望だった。第2志望以降はテニスの弱い進学校。第1志望の学校は内申点+関東に行けばきっと通るんじゃないかと助言されていたので必要最低限の関東大会出場だけのために練習して、関東大会出場+中3の成績オール5は達成はした。

推薦に落ちた場合は勉強で高校に行くので、関東大会で負けた7月以降は勉強のみでテニスはしなかった。周りのライバルたちは推薦で強豪校に行くのでテニスを休む人はいなかったけど、精神的にも限界だったので私にとって勉強に逃げられることはラッキーだった。

中3の1月に第1志望の合格発表を迎えた。
書類選考で不合格。共学になったばかりで女子は取る人数がとても少なく、且つスポーツの成績よりも3年間の内申点を実は重要視されていた。私は中1、中2の時はたしか3、4科目評定が4のものもあった。
同じ高校を受けた男子は合格していて、泣くつもりもなかったのに大泣きした。

そうして最終的には家の近くの公立高校に一般入試で合格し、そこに行くことになった。家からも近いので結局今までのテニスクラブに通うことになり、絶望した。

続く

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