柳の木の下で

 御徒町も大分、昔と様相が変わった。
なんでも揃う卸しの街というのは、まぁ変わらないやも知れぬが、
やれ、今風のビストロやら、たこ焼き屋やら、大手のディスカウントショップやら。
 アメリカもワシントン州からやって来た、小洒落たカフェが前面禁煙を売りにこれまた小洒落たビジネスマンで繁盛している。
 そうかと思えば、並んだシャッター、
今では成り立たなくなった昔ながらの商売、
そこに生きていた古い気質のおやじやおかみさんが、
こうっと、これまでの人生を放り投げてしまったような侘しさを醸し出す。

 そんなシャッター群の、真ん中あたりの古びた建物に看板だけは電飾でビカビカ光る質屋があった。
「古書、切手、宝飾品、革製品。質草、質受、買取り販売いたします。
修理代金は買い取り額に還元。
保管料、利息に充てるもよし。なんでもあり。」
 店内では冴えない禿げたおやじが、何だか知らぬが「ハムレット」を読んでいる。
 ちりん。と入口の鈴が鳴った。禿げたおやじは気が付かない。
すると女の声が言った。「質草お願いできますか。」
おやじは顔を上げず「物は何?」
「あの・・・革製品。」「新品?」
「いえ、その、だいぶくたびれてるんですけど、こちらじゃ、修理して流していただけるんでしょ?」
「ああ、お釣りがくりゃね。」おやじはまだハムレットを読んでいる。
「そいで、物はどれ?」
「あの、あたし。」これでおやじも顔を上げた。
 そこには青白い、柳の木の下にでも立っていそうな女が薄ら笑いを浮かべていた。
 「うちはさぁ、生ものは扱わないんだよねぇ。」
変なことを言えば祟られそうな姿に、おやじはそんなことを言った。
言った傍からこりゃまずい、と思う。
 生ものでなかったら事だぞ。
 「でも、革製品なら、ね?」おんなは恨めしそうに言う。
「生もの」の方には異論が無いようなんで、おやじは思わず安堵した。
安堵している隙に女は畳み掛ける。
「そりゃ、猫じゃないし、
仮にあたしが猫だったとしても、
子供こそ産んじゃいないけどもこんなに皮が劣化しちゃ、三味線にはならないけど。でもほら、あるじゃありませんか、ヤギだかなんだかの沈黙とか。
人の皮でランプ、造れるんですって?」
「ええと、するってぇとあんた死ななきゃならんけど、死んだら金要らんだろ?」
おやじは思わず、純粋な疑問を投げかけた。
「それは…そうねぇ。」「生きるべきか、死ぬべきか、そこが問題かい?」おやじは読みかけの項のフレーズを、不本意にも少し得意になって、口走ってしまう。
「いえ、そんな高尚なことじゃぁないんです。」ここへ来て初めて、女はきっぱりとした口調をした。
「生きるのにしがみ付いているんですよ。だのに怖くて、不安で、どうしょうもないんです。
捨てられるのが怖くて、さっき、先に旦那を捨ててきたとこです。」

「はぁ。」
「おかしいでしょう?」女はまじまじと店の主人を見た。
「壊れてるんです。だから、直して。
カバンでも何でもいいから、まともなモノにしてくれません?そしたら・・・上手くすればランプだろうが、カバンだろうがー誰かに確実に必要とされるわけだものね。」
うっとりとするその顔が、一瞬オフィーリアの死に顔のように思えて、おやじはうっかり頷いた。頷いちまった以上、何だか知らんが少しばかり付き合うしか無かろう。
おやじは腹を決めて女を店に置くことにした。
 そのうちランプだの鞄だのになるのを忘れて、そのまんまの自分でも、
柳の木の下の美貌のバケモンだとしても、立派に生きる場所があると分かるだろうと。
 置いておくようになると驚く程よく気の付く女で忙しなく働き続けた。
止まれと言っても止まらない。

 成程、こいつぁ壊れてやがるとおやじは一計を案じ、少々手荒だが、女の頭をぽかりとやって言った。
やぁ、すまねぇ、すまねぇ。その瘤がへっこむまで奥で寝ていてくんねぇ。 
 狐に憑かれたみたようになっていた女がふぅと緩み、ぷらりと奥に下がった。


 しばらくぶりに、一人店番をしていたおやじは、「白痴」を読んでいた。扉の鈴が鳴る。めんどくせぇな、と行を追う目を離せずにいたおやじに、男の声が言った。
「足を…質草に出来ますか?」おやじはぎょっとして顔を上げた。そこにはいかにもタクシー運転手全とした男が、制服もそのままに立っていた。
「足―で?」
おやじが聞き返すと、男はおもむろに制服の足を引き上げて、右足を外した。
「義足です。これでいくらかお借り出来ないでしょうか?」「だってあんた、それじゃ仕事出来んでしょうに。」
「妻を、妻が…どこかで私を待っていると思うのです。しかし私には妻を探す金がもう無い。どうか、お願いします。」―はぁん―。
おやじは言う。
「あんたの質草預かってんだよ。
今鞄に直しちまおうかと思ってたとこ。へっへ。
出質かい?」


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