中露北は「年を歴た鰐」

中露北は「年を歴た鰐」
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」107/通算539 2022/11/15/火】読書の秋、小生は年がら年中“毒書”、即ち、使いよう、考えようによっては“効き目のある本”を読むようにしている。

繰り返すが、本はざっくり分類すると「娯楽系」と「教養・学問系」(教学系)があり、男はというか、特に記者稼業の場合は教学系の本を読んでおくと言論戦で有利になったり、一目を置かれたりする。

「○○はこう言っているが、一方で▲▲はこうも言っている。▲▲の見方も理論的には筋が通っているけれど、今の状況には○○の主張の方が現実的だと思うよ」なんて話すと、○○も▲▲も名前は知っていても読んでいない人は「ふーん、そうかもしれないなあ」となりやすい。俺の勝ちだ。

これは相手が男の場合で、大体単純、素直なのが多いから理路整然と説けば上手くいくのだが、女はちょっと違うよう。女は自己保身のためなのか、表向きは異議を唱えることはしないが、裏の“女子部”では結構辛辣なことを言う。

「修一君の言うのは正論かも知れない・・・でも、私は○○のやり方では強引過ぎて、上手くいかない時のリスクは大きいと思うの。第一、修一君は言うこととやることが怪しいし・・・ここだけの話だけれど、修一君は内輪の割り勘の飲み会なのに、店から全額費用の領収書をもらって会社に営業交際費として請求していたのよ、ひどい話でしょ?! 一種の背任横領よ。彼の言うことは話半分で聞いておいた方がいいのよ」

狡猾な小生は“女子部”にシンパを置いていたので、その情報を知ってからは大いに自重するようになったが、「仕事ができる」と「品行方正」は両立がなかなか難しい。結局、労組=部下の造反にウンザリして辞表を出したが、会社から「労組のハネッカエリ共をクビにするから辞表を撤回してくれ」と慰留された。

しかし、最早、小生はやる気が失せてしまったし、解雇された部下はまだまだ編集・記者として十分な能力はない上に、「元労組幹部で、上司と折り合いが悪かった」では再就職は難しいから、ここは小生が静かに身を引くのが一番だと決断した。綺麗ごとの理由ばかりでなく、1984年頃は年功序列の給与体系が普通で、それでは「やってられない」という思いもあった。

独立したら、真っ先に辞めたばかりの会社から仕事が来た。複数のクライアントが「修一君じゃなければダメだ」と応援してくれたのだ。駆け出しの昔、世話になった会社からも仕事を貰えた。後のことだが、小生を“追放”した部下が他社に移るや、仕事を回してくれもした。彼は「修一さんは僕らが叩いたから辞めるんですか」と言っていた労組幹部だったが、「やり過ぎた」と忸怩たる思いを持ち続けていたようだ。

独立して半年間は入金が少ないので厳しかったが、幸いにもクライアントが付いてそれなりに回り始めるようになると、午後5時以降は「仕事=接待」になったのは想定外だった。水を得た魚のように月水金は飲み会になって仕事と趣味が“両立”したのは有難かったが好事魔多し。結果的に飲み過ぎやストレスから胃癌になり、やがてアル中にもなったが、零細企業の社長はストレスが大きいから体を壊す人が多いのではないか。

運が良かったのか、元中核派の前科者ながら今は人がましい穏やかな晩年を迎えたが、たまたまレオポール・ショヴォ著、山本夏彦訳の「年を歴た鰐(わに)の話」を20年振りに読み直してみたら、「バカをやっても、トンデモナイ悪党であっても、事と次第ではソフトランディング、軟着陸できるケースはあるものだ、そういう怪しい輩には気をつけろ」という話のよう。読み方、解釈によっては痛烈な社会批判とも言え、小生は改めて夏彦翁の慧眼に恐れ入った。

版元の文藝春秋によると「山本夏彦氏は昭和16年に日本に最初にショヴォ氏を紹介。この本は昭和21年に再発行されたものの復刻版」とある。昭和16年/1941年と言えば日米開戦の時期、欧州ではヒトラー・ドイツとスターリン・ソ連が密約して侵略を進めていた時期であり、意味深だ。以下、かいつまんで同書の内容を紹介する。

<この話の主人公は、大そう年を取った鰐(わに)である。この鰐はまだ若い頃、ピラミッドが建てられるのを見た。年を歴た鰐は、長い間健康だったが、5、60年このかた、ナイル川の湿気が体にこたえはじめたことに気がついた。かくして、びっこをひきひき、よたよたして、体を軋(きし)らせ、身振りおかしく年とった鰐は歩いた。

ナイル川に住む魚たちは、鰐がやって来る音を遠くで聞いて、互いに叫びかわした。「オーイ。おいぼれが来るぞ」 彼らは悠々と立ち去り、鰐を嘲った。

哀れむべき鰐の、日々の献立は貧しくなった。昔は、新しい肉しか食べなかったのに、今では岸に打ち上げられた死骸を見つけて、それで我慢しなければならない。こんな養生法は気にくわなかった。

どうにも辛抱しきれなくなったある日、鰐は自分の家族の一匹を食おうと決心した。曽孫になる子が、つい手のとどく所で眠っていた。彼は大きな口をあいて、曽孫が目を覚まさないうちに頬ばった。

昔だったら三度、顎と咽喉(のど)を動かしただけで胃の腑に落ちるのだが、30分も大きな音を立てて咀嚼したが、まだ咽喉を通らなかった。

「お祖父さんは何をかじっているんだろう」。近所で昼寝していた曽孫の母親は考えた。可愛い息子が危ない食道を通っているとは夢にも知らなかった。「やかましいね、お祖父さんは。そばじゃ、おちおち眠れやしない」

孫娘にあたるこの母鰐は、まだ500歳にはなっていなかったが、もう尊敬されるべき立派な夫人だった。お祖父さんを叱ってやろうと彼女は急いだ。お祖父さんの口から、まだ尻尾の先が少し出ていた。ほんの少しだったが、母親の愛の目は見誤らなかった。

「人でなし!」と彼女は叫んだ。「あんたはあたしの子を食べたんだね」

年とった鰐は、そうだとうなづいて見せ、最後に力を込めてぐっと呑みこんだ。若い鰐は完全に胃の腑におさまったのである。母親はにがい涙を流した。

年よりだというので尊敬されていた鰐だったけれど、皆から非難された。早速、親族会議が開かれ、二度とこんな不祥事が起こらないように厳罰に処すべきだと認められた。この鰐を殺すことになった。

家族の中の雄という雄がとびかかった。彼は眼をつぶった。ところが数十世紀を経て厚くなった皮には、爪も歯も立たなかったのである。

年とった鰐は、自分の子孫の不遜に堪えられなくなって、びっこをひきひき、よたよたして、河へ入り、そこを逃れ去った・・・>

鰐はナイル川を経て海へ入り、浮力と塩分と日光浴のお陰で持病のリウマチも緩和されていく。やがて海で12本足の蛸(たこ)ととても仲良しの友達になるが、食欲に負けて食ってしまい、諸行無常を感じたのか故郷に戻る。

しかし、曽孫を食った年とった鰐の姿を見ると鰐たちは逃げ出すばかりで安住の故郷ではなくなっていた。「ああ、まだ覚えていたのか。だが、あんなつまらぬ鰐を食べたからといって、どうしたというのだ」。居直ったところで孤独感は募るばかりだ。

<彼は孤独な生活に堪えられなくなった。こんなことなら何も食べずに死んでしまおうと決心した。水から上がって、ため息をつき、乾いた岸の泥の上に長くなって、死を待った。始めに訪れたのは眠りであった。年とった鰐は夢で甘い歌と、妙なる音楽を聞いた。「ああ、俺は死んだのだな、鰐の天国へ入っていくのだな」・・・

にわかに音楽が耳を聾(ろう)すばかりになったので、目を覚ました。「なんだ、まだ死ななかったのか」

一団の黒んぼが彼のまわりで踊っていた。歌いながらタムタムや太鼓をひどく打ち鳴らしていた。鰐が目を開くと、彼らは地面に額をすりつけて平伏した。「これは一体なんの真似だ」と彼は呟(つぶや)いた。

断食して死のうと決心したことも忘れ、彼は若い、脂ぎった黒んぼの娘の足をくわえた。すると黒んぼの一団は立ち上がって、うれしくてたまらなそうな様子をした。娘も、鰐に腿をかまれているのに、にっこり笑った。そして素早く腰布を取った。それには硝子玉の飾りがついていて、年とった鰐の胃袋では消化できなかろうと案じたからである。娘は食われてしまった。

彼らは眠り続ける鰐を村で一番大きな、一番美しい小屋に安置した。以来この小屋は神社になった。年を歴た鰐は神様に祭り上げられたのである。毎日十か十二ぐらいの娘が生贄にされた。鰐は喜んで食べたが、娘も喜んで彼に食べられた。

たった一つの疑問が年とった鰐の平和と静謐をかき乱した。なぜ仲間は彼を見て逃げたのだろう、なぜ黒んぼは彼をあがめるのだろう。彼には分からなかった。もし彼がその理由を知ったら、一層くよくよしたかもしれない。

年とった鰐は、熱すぎる紅海の水に浸っていた間、気がつかないうちに海老のように真赤になっていたのである>

1917年(大正6年)のロシア共産主義革命は世界に大きな衝撃を与えた。その基本は「伝統秩序の破壊」「表は自由民主を唱える個人独裁」で、共産主義=正義=政府を倒せ=秩序を破壊せよという思想が広まった。日本では「大正デモクラシー」という文化革命があり、一種の流行、オシャレになり、マルクスボーイがずいぶん増えていった。

レオポール・ショヴォは1870年フランス生まれ。本業は医師だが第一次世界大戦後は作家になり、同業のロジェ・マルタン・デュガール(「チボー家の人々」など)やアンドレ・ジッド(「狭き門」など)と友になったという。「チボー家」にはアカに染まって野垂れ死にする次男が描かれていた。悲惨である。

WIKIによるとアンドレ・ジッドは「1936年、ソ連邦作家同盟の招待を受け同国を訪れ、約2ヶ月間の滞在ののち『ソヴィエト紀行』でソ連の実態を明らかにしてスターリン体制に反対する姿勢を鮮明にし、左派から猛批判を受けた」そうだ。○○につける薬なし、アカと邪教は痛い目に遭わないと目が覚めない。小生がいい例だ。

この2人を共とするショヴォもソ連共産主義独裁の恐ろしさを十分知っていたろう。1940年、ソ連と手を握ったナチス・ドイツの侵攻迫るパリを逃れる旅の途上、ノルマンディーの小村で没したという。

ロクデナシの「年を歴た鰐」は日焼けで赤くなっていたため「神様・ご本尊」になった。アカの代表であるレーニン、スターリン、毛沢東も内戦や戦争で殺しまくってご本尊になり、プーチン、習近平、金正恩もそれを目指している。

人食い鰐に食われるか、あるいは鰐を駆除するか、世界は岐路にある。鰐と会談したところで無意味だが、それさえ分かっていないチェンバレン式宥和政策の政治家が多過ぎる。
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