“忘れられた島”になるな

“忘れられた島”になるな
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」111/通算543 2022/12/5/月】屋上営繕作業は一段落したが、12/1からは随分冷え込んできたので1時間ほど作業すると鼻水タラタラ。暫くは大人しく巣ごもり、「戦士の休日」でノンビリするしかなさそうだ。無理をして体調を崩すとロクなことにならない。

多動ヂヂイの“冬休み”は軽いチャリ散歩と読書、料理、包丁研ぎ、日記などチマチマした事柄がメインになる。昨日は有吉佐和子の「私は忘れない」を読み終えた。1992年あたりに読んでいるから30年振りの再読だ。リタイアしたカミサンに読書の習慣を付けるため、女性作家の読みやすい作品を選んで「これ面白いよ」と薦めていけば、やがては小生の晩年の良き同志になるのではないかという深謀遠慮である。

しかし、10日ほど前に向田邦子の「あ・うん」などを渡したが、「昔読んだし、字が小さくて読めないから」と、興味がなさそうだった。彼女は子育てと仕事に追われた40年間、新聞をざっくり読むのが精々で、それ以外はテレビとゲームとショッピングなどを楽しんできたので、「今さら読書?」と興味も意欲もないようだ。それなりに教養・学問系の読書は集中力、体力、気力、好奇心、脳みそパワーが要るから、70歳なってからそれを習慣づけるのは難しいかもしれない。

で、10冊ほど厳選、用意した本をそのまま本棚に戻すのも芸がないから、と小生は「私は忘れない」を読み始めたのだが、これがまるで縄文時代以前のような文明とは程遠い世界を描いている。女優志願の主人公は東京での仕事に挫折し、英気を養うために、以前から気になっていた「忘れられた島」に旅に出た、との設定。そこに見たものは過酷過ぎる自然、それに翻弄される島民の貧しい暮しで、「同じ日本なのに、これでいいのか?!」という強烈な思いを抱く・・・という、社会派的な作品だ。

この「忘れられた島」というのは初版1955年5月25日、敗戦から10年の「岩波写真文庫」のタイトルである。当時はどういう時代だったのか。1945年の敗戦から7年後の1952年4月には対日平和条約(通称、サンフランシスコ講和条約)が発効し、表向きは主権回復している。

日本が1950年からの朝鮮戦争特需で米軍補給基地として息を吹き返した頃、小生は4歳で、父曰く「お前は米軍キャンプ座間の残飯で育った」、2つ上の姉なんぞは健康優良児で表彰されたから「飢え」は知らないで済んだ。とにもかくにも「平和と豊かさの時代」が始まったのだが、共産主義者は「立て、飢えたる者よ!」の暴力革命がキモだから大混乱に陥った。

戦後に岩波書店はソ連共産党の日本支部=日本共産党に乗っ取られていたが、1955年に日共は暴力革命を停止し、ソフト路線に転換した。

<日本共産党では、1951年の第4回全国協議会(四全協)より山村工作隊などの武装闘争路線が採用された。更に同年10月に開催された第5回全国協議会(五全協)で「51年綱領」が採択され、火炎瓶を用いた武装闘争が各地で繰り広げられた。

しかし、1952年の第25回衆議院議員総選挙で候補者が全員落選してしまい、著しい党勢の衰退を招くことになった。党を立て直すため、1955年7月の日本共産党第6回全国協議会(六全協)では武装闘争路線を転換し、権力が暴力で革命運動を抑圧しない限り、革命運動も暴力を行使しない、という「敵の出方論」を採用した。権力奪取が「武装闘争」になるか否かは、まさに「状況次第」ということになる。

山村工作隊などの活動に参加していた学生党員は、突然の路線転換に衝撃を受け、日本共産党を去った者も少なくない。あるいは、失意のうちに自殺した党員もいる。また、日本共産党が戦後から再開した「武装闘争」路線を信奉する急進的な学生党員は、新指導部への不信・不満を募らせ、のちの共産主義者同盟結成や新左翼、過激派ら誕生へと向かう種が、この六全協によって蒔かれた>(WIKI)

「忘れられた島」は1955年5月、日共が党の路線を巡って揺れ動いていた時期に発行された。企画自体は1954年秋頃には決まり、翌年春に取材、大急ぎで編集したようだ。当時の岩波の宣伝文にはこうある(カッコ内は修一)。

<鹿児島県に含まれ、その南端から指呼の間にみえる三つの島、「黒島」「硫黄島」(激戦地とは別)「竹島」(韓国が不法占拠している島とは別)。電信も電話もなく、戦争の終ったことすら3ヵ月後に知ったという。文化的施設もなく、住民の生活は極めて貧しい。日本にこんな島のあることを知らせるために強烈な愛と意志をもって写した>

同書は2008年に復刻版が出たが今は絶版。戦後に日共に乗っ取られた岩波は共産主義化を目指し「資本主義の矛盾、悪逆非道」を暴くために“虐げられた人々”として同書を出版したのだろうが、1962年あたりからのイケイケドンドン的高度成長は遅ればせながら辺鄙な島嶼にもそれなりの発展をもたらしたから、岩波、日共も今や斜陽で、自分たちが「忘れられた島」になってしまった。

小生はAmazon名義のメールがやたらと増えていたのでハッキングされないように無視していたらネットショッピングができなくなって「忘れられた人」になってしまったため、図書館で「忘れられた島」初版を取り寄せて読んだ。同書について「読書メーター」というサイトには以下の感想文があった。

<屋久島のすぐそばにある、黒島、竹島、硫黄島を豊富な写真で紹介。面白かった。戦後の貧しさの中でも尚貧しさを極めながら、逞しく生きようとする人々。北緯30度で分かれたアメリカ統治下とならず、故に文明化の遅れに遭い、金を生み出す違法操業、牛は騙し取られ、断崖絶壁の「修験道か!」とツッコミたくなる港を、貴重な荷を背負って登る島民たち。意気高揚の学校、平家貴種流離譚など、見所満載だった>

同書の写真撮影は有名な名取洋之助(1910―1962)で、「1950年、組写真を利用して編集された新しい出版物として一時代を画した《岩波写真文庫》の編集責任者となり、以降同文庫は1959年までに286冊が刊行される。戦前戦後を通して、写真家であると同時にプロデューサー的な手腕を振るいながら国際的に活動した(百科事典マイペディア)」。
https://i1.wp.com/photo-archive.jp/web/wp-content/uploads/2021/07/302b834c0be665f8526a71b72677a7c5.jpg?ssl=1

有吉佐和子の「私は忘れない」では、過酷な風土、自然に苦闘しながら生きる黒島(鹿児島県三島村黒島)と住民を描いており、島の公的サイトhttp://mishimamura.com/にはこう記されている。

<昭和34(1959)年、有吉佐和子さんの朝日新聞連載小説「私は忘れない」が映画化、松竹映画の撮影ロケ班一行が20日間にわたり黒島に滞在してロケが行なわれ、島民多数が出演した。これを記念して平成4年に「有吉佐和子文学顕彰碑」が建立された>

WIKIによると、<黒島は、薩南諸島北部に位置する有人島。全国の他の黒島と区別するため薩摩黒島(さつまくろしま)と呼ばれることもある。郵便番号は890-0902。人口は189人、世帯数は100世帯(2020年5月1日現在)。竹島、硫黄島および周辺の小島や岩礁とあわせて「鹿児島郡三島村」を構成する。

面積は15.37km2、東岸の「大里、おおさと」と西岸の「片泊、かたどまり」の2つの集落から構成され、三島村の主要3島の中では面積・人口ともに最大である>

上述の三島村公的サイトによると黒島は「多彩な動植物と豊かな漁場を育む緑深い森の島」と以下紹介している。

<鹿児島県三島村で最大の島である黒島は島全体に森林が多く、動植物も豊富で、様々な渡り鳥や昆虫など、多彩な自然の姿が見られる島です。森林からわき出る清水は海岸の断崖で滝となり、白滝の美観を見せています。離れ瀬の多い島周辺には、絶好のフィッシングポイントが散在し、とくに塩手鼻、赤鼻などはイシダイのメッカと言われ、島内外から釣りマニアが訪れています。

緑豊かな自然環境のなか、椎茸栽培や大名竹などの収穫に恵まれ、特産品として出荷されています。また広大な土地を生かして牛の放牧も盛んで、足腰の強い「みしま牛」の育成に力が注がれています。海岸線の奇岩や断崖など景勝の地で、日没時の美しいサンセットラインは圧巻です。周囲20.1km、面積15.51km2、人口181人(2019年8月1日現在)。

黒島は標高622mの櫓岳を最高峰に500m級の山々がそびえ、森林と大名竹に覆われた自然豊かな島。断崖絶壁の海岸線には、無数の滝が見られる。雑木の宝庫で木炭の産地として栄えたこともあった。また、昭和59(1984)年から、豊富な椎の木を使った「椎茸」の栽培が行なわれ、村の特産品として好評を得ている。この島も、他の島と同様、畜産が盛んである>

小生のカミサンはさらに南の奄美大島生まれだが、黒島とはずいぶん違う。奄美は諸島を含めて薩摩藩領で、西郷さんの流刑地、奥さんは島娘、対米戦末期では人間魚雷の軍事拠点だった。産業には昔からの特産品として最高級絹織物の「大島紬」、サトウキビ栽培も盛んだった。大島紬は1980年代に着物の需要そのものが激減してしまったが、全盛時代は「娘2、3人が機織りすれば親は左団扇」で、島全体が潤っていた。

戦後の奄美は1953(昭和28)年まではアメリカ軍政下に置かれたが、平地が少なく、かつ本土復帰運動が盛んだったため米軍占領は8年間で済んだ。それでもハーフの人は珍しくなかった。

1960年代の高度成長により、奄美など多くの島も遅ればせながら徐々に高度成長の恩恵を受けるようになっていくが、奄美では皇太子ご夫妻(現在の上皇・上皇后さま)が1968(昭和43)年に初訪問されることが決まってから道路が整備され始めたこと、さらに沖縄が米国領にされていたために“最南端の観光地”として人気があったことなどから“近代化”が急速に進んでいった。それでもカミサンが小6の1964年まで通学は裸足が普通だったというから、鹿児島以南の離島は大体、そんなものだったろう。

黒島など人口が極端に少ない三島村はナイナイヅクシで貧困が目立った時期があったが、今は国や鹿児島県の大きな財政支援があり「貧困」は克服されたようだ。しかし、老人が増える一方でこれという産業がないためもあって若い人は島外へ出て行くから、21世紀版の「忘れられた島」になりつつあるよう。日本自体が「忘れられた島」、さらに「忘れられた倭族自治区」にならぬよう、日本民族による日本国家の存続を守りぬかなければならない。(何となく「遺す言葉」みたいだなあ・・・)
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