ショートショート_ビールセラピー
ビールは、紀元前から人々に親しまれてきた飲み物であり、その歴史は古代メソポタミアにまでさかのぼる。時代とともに、各地の気候や文化に合わせてさまざまなビアスタイルが発展してきた。その多様性は、ビールが単なるアルコール飲料ではなく、風土や人々の心を映し出す存在であることを物語っている。
ドイツでは、ラガービールが特に有名だ。ラガーは低温で発酵され、澄んだ味わいと清涼感が特徴である。また、小麦を使ったヴァイツェンは、バナナやクローブの香りを持ち、フルーティーで柔らかな味わいが楽しめる。
オーストリアではピルスナーが主流で、ドイツと似たスタイルだが、よりモルティな甘みが感じられることが多い。オーストリアのピルスナーは、苦味と甘味のバランスが取れた、しっかりとした味わいが特徴である。
イギリスのビール文化はエールが中心で、エールは常温で発酵する上面発酵によって作られる。中でもポーターは、黒い色合いとチョコレートやコーヒーを思わせる深い風味が特徴的で、18世紀のロンドンで労働者階級に広まったビールである。
ベルギーはビールの王国と称され、多様なビアスタイルが存在する。修道院ビールは、古くから修道士によって作られてきたアルコール度数の高いビールで、フルーティーな香りやスパイシーな風味が特徴だ。また、ホワイトエールは、小麦を使い、コリアンダーやオレンジピールを加えた爽やかなビールで、軽やかな口当たりが特徴である。さらに、自然発酵で作られるランビックビールは酸味が強く、ユニークな味わいが特徴的だ。
アメリカでは、近年クラフトビール文化が急成長し、特にアメリカンIPA(インディア・ペール・エール)が人気を集めている。IPAはホップの強烈な香りと苦味が特徴で、アメリカンIPAはその要素をさらに強調したビールだ。柑橘系や松の香りが感じられるのが一般的で、アルコール度数も高めである。
N氏はこれらのビールの多様性に着目し、「ビールセラピー」を発案した。彼の考えは、選ばれたビールの特性からその人の心理状態を読み解き、最適なビールを提供することで心の癒しをもたらすというものだった。N氏のセラピーは評判を呼び、多くの人々が彼のもとを訪れた。
ある日、N氏の元に一人の女性が訪れた。彼女は長年の職場でのストレスと、プライベートでの抑圧された感情に苦しんでいた。見た目は平静を装っていたが、N氏は彼女の表情や仕草から、その内面に秘めた葛藤を感じ取った。
N氏は彼女に、数種類のビールを紹介し、自由に選んでもらった。彼女が手に取ったのは、意外にも淡い色合いのヴァイツェンだった。ヴァイツェンは、小麦を使ったビールで、バナナやクローブのようなフルーティーでスパイシーな香りが特徴的だ。彼女はその柔らかな香りを楽しみながら一口飲むと、目に涙を浮かべた。「心が軽くなった気がする」と彼女は静かに微笑んだ。
N氏は、彼女が日々の重圧に対抗するために自らを抑圧していたことを読み取り、その反動で今は解放感を求めていると感じた。そこで、次に彼女にはベルギーのホワイトビールを勧めた。コリアンダーやオレンジピールのスパイスが感じられるホワイトビールは、彼女の心をさらに軽やかにし、穏やかな気持ちを引き出すのに役立った。
数回のセラピーセッションを通じて、彼女は次第に自身の感情を解放し、仕事でもプライベートでも前向きな変化を見せるようになった。彼女はビールセラピーが自分の心を映し出し、その内面に向き合う手助けをしてくれたことに感謝の言葉を述べ、セラピーは大成功を収めた。
N氏の評判はますます高まり、多くの患者が訪れるようになった。しかし、ある日、一人の青年がやって来た。青年は無言で椅子に座ると、「インペリアルスタウトをください」と言った。
N氏は驚いた。インペリアルスタウトは、黒ビールの一種であり、非常に濃厚でアルコール度数が高く、チョコレートケーキのように甘い味わいと深いコクを持つ。コーヒーやダークチョコレート、タバコのような香りが特徴で、その重厚さから、かつてロシアの皇帝たちにも愛されたビールだ。インペリアルスタウトを好む人は、一般的に強い感情や抑圧を抱えていることが多い。だが、目の前の青年の無表情には、そうした強い葛藤が見られなかった。
N氏は慎重にインペリアルスタウトを注ぎ、青年の前に置いた。黒く濃厚な液体がグラスに注がれ、青年は無言でそれを手に取った。一口、二口と静かに飲み進めると、青年はすぐに飲み干してしまった。そして、何も言わずにもう一杯を要求した。
N氏は不安を覚えながらも、再びインペリアルスタウトを注いだ。だが、青年はそれでも満足することなく、さらに強いビールを要求し続けた。彼の目には抑圧された苦悩ではなく、むしろ底知れぬ欲望が渦巻いているように見えた。
「あなたのセラピーは素晴らしいですね。でも、僕はもっと深いところに触れてみたいんです。ビールの持つ真の力に。」
その言葉にN氏は背筋が凍った。ビールセラピーは人の心の癒しを目的としていたが、この青年はその力を逆手に取って、自分の欲望を解放しようとしていた。N氏は恐怖を感じながらも、何杯ものインペリアルスタウトを提供し続けた。
やがて、青年は無言で立ち上がり、最後に一言だけ告げた。「ありがとう。あなたのおかげで、僕の欲望は完全に解放されました。」
彼の欲望はとどまるところを知らず、世界を支配するに至った。しかし、そこにはジャーマンピルスナーのような明るい希望はなく、漆黒に満ちていてた。青年の愛したインペリアルスタウトのように。
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