ショートショート_時空税
N氏は朝の通勤電車の中で、ニュースアプリをスクロールしていた。目に飛び込んできたのは、「時空税の再増税決定」の見出しだった。何度も繰り返されるこの言葉に、彼はもう何の驚きも感じなかった。むしろ無力感が押し寄せてくる。時空税とは、時間、空間、そしてエネルギーに課せられる新しい税であり、その導入以来、国民は生きること自体に対して負担を強いられているのだ。
「また増えるのか…」N氏はため息をついた。政府は「未来のための投資」と称して時空税を正当化しているが、実際は国民の生活を苦しめるだけで、未来への希望を感じることなどできない。収入が増えるどころか、むしろ生活費は増税によって圧迫されている。家に帰っても、妻と子供たちの不安そうな顔が浮かび、さらに胸が重くなる。
N氏の職場は金融業界で、毎日株価の動向に目を光らせる必要があるが、彼自身は株には一切手を出していなかった。日本の株価は連日高騰しているが、彼にはそれが不気味に思える。そんな彼の前に、同僚のK氏が現れた。
「N君、株やらないのか?今、儲かるぞ」
K氏は投資で成功を収めた男だ。いつも株式市場の話を持ち出してくる。N氏はやんわりと首を振る。「いや、俺はいいよ。今の株価の上がり方、なんか異常だし、どうせ外国人投資家が利益を得てるだけだろう?俺たち日本人が得られるものなんてほとんどないじゃないか」
K氏は笑った。「確かに外人投資家が多いけど、それはチャンスでもあるんだよ。俺たちも彼らと一緒に稼げばいい。今だけ儲かれば、後のことなんてどうでもいいさ」
N氏はその言葉に強い違和感を覚えた。今だけ儲かればいい、という考え方が、どうにも受け入れられない。しかし、K氏は自信満々にこう続けた。
「未来はどうなるかわからないけど、株価が上がってるうちは投資しないともったいないだろう。日本の未来なんてどうでもいい、今が楽しければそれでいいんだよ」
その言葉に、N氏は言い返す気力も失ってしまった。株価は確かに上がっているが、それがどうにも不自然なのだ。テレビでは政府の関係者が「未来のための投資が必要だ」と繰り返しているが、N氏の目には、その未来が実現する兆しは見えない。
家に帰ると、妻がキッチンで夕食を作っていた。彼女の顔にも疲労がにじみ出ている。二人の子供たちは、リビングのテーブルで宿題をしていたが、以前のような明るさは感じられなかった。
「今日は、また時空税の話だったよ」N氏がため息混じりに言うと、妻も肩を落とした。「このままじゃ、どうやって生活していけばいいのか分からないね。子供たちの将来だって、どうなるんだか…」
N氏は言葉が出なかった。未来のためと言われ続けているが、その未来を担保にして現在を犠牲にしているような気がしてならない。いや、未来さえも奪われているのではないか。
数日後、ニュースが報じられた。政府がまた新たな融資を受けたというのだ。それも、未来を担保にした借金である。まだ生まれてもいない世代の時間や空間を担保に、外国からの莫大な資金を引き出している。もちろん、その負債を支払うのは、今生きているN氏たちだけではなく、未来に生まれてくる子供たちなのだ。
「未来を売り飛ばすなんて、どうなってるんだ…」N氏はつぶやいた。これ以上、未来を奪われてどうするというのか。政府は「国民の生活を守る」と言ってはいるが、その代償として国民の時間と未来を売り続けている。
その夜、N氏はソファに座り、天井を見つめていた。K氏の言葉が頭をよぎる。「今だけ儲かればいい」「未来なんてどうでもいい」。彼の生き方は合理的なのかもしれない。だが、N氏はどうしてもそれに納得できなかった。
次の日、N氏はいつものように出社し、デスクでPCを立ち上げた。株価はまたも上昇していた。外国人投資家たちが大量に株を買い占めているというニュースも同時に流れていた。K氏は相変わらず株の話をしているが、N氏はその声を遠くに感じた。
昼休み、N氏はふと思い立ち、K氏に声をかけた。「K君、本当にこれでいいと思ってるのか?」
K氏は驚いた顔をした。「何の話だ?」
「俺たちの未来は、どんどん売り飛ばされてる。時空税にしても、政府の借金にしても、未来世代に押し付けてるだけじゃないか。俺たち、何を残すんだ?」
K氏は少し黙った後、軽く肩をすくめた。「俺たちがどうこう言ったって、変わらないだろう?未来なんて誰にもわからないんだよ。それなら今を楽しんだほうが得だ。君も株を買って儲ければいいさ。俺たちにはどうせ大きな影響はないんだから」
N氏はその言葉に答えず、ただ自分のデスクに戻った。株価のグラフが画面に映し出されている。その曲線はどんどん上昇しているが、それが何を意味するのか、N氏にはもはや分からなかった。今を生きるために、未来が切り売りされている。そしてその未来が、いつか尽きる日が来るのではないか。
N氏は窓の外を見た。都会のビル群が並び、その向こうに見える空は鈍色だった。
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