ショートショート_資格の勉強
N氏はカフェの片隅で、資格試験のための勉強に集中していた。少し疲れて顔を上げると、近くのテーブルに男女が座っているのが見えた。二人は整った服装をしており、会話をしているようだが、どこかぎこちない雰囲気が漂っている。N氏は思わず、二人がマッチングアプリで出会ったばかりなのではないかと推測した。少し休憩がてら、彼らの会話に耳を傾けてみることにした。
「最近、何か楽しいことはありましたか?」と男性が柔らかい声で尋ねた。
女性は少し考え込みながら、「うーん、あまり楽しいことはなかったかも」と言った。「でも、何かを始めたい気持ちはあるんです。ただ、何をすればいいのか、よく分からなくて」
「それは、何か変化を求めているってことですか?」男性は少し身を乗り出し、彼女の目を見つめた。
「そうかもしれません。今のままではいけない気がして。でも、何をどう変えたらいいのか分からないまま、毎日が過ぎてしまって…」女性は声を落として、少し自信なさげに話した。
「その感じ、分かります」と男性は優しくうなずいた。「変わりたいという思いはあるけれど、具体的にどうしたらいいのか見えない。そういう時って、焦ってしまいますよね」
「そうなんです。焦ってはいるんですけど、何もできていない気がして、自己嫌悪に陥ってしまうこともあって…」彼女の声には、少しの苛立ちと不安が混じっていた。
「それでも、変わりたいと思っている自分に気づいていることが、大切なんじゃないですか?」男性は静かに問いかけた。「その気持ちを大切にして、無理に何かをしようとしないで、少しずつ考えていけばいいのかもしれませんよ」
女性は小さくうなずき、「そうですね。無理に急がない方がいいのかも。でも、やっぱり何かしなきゃっていう焦りが消えなくて…」と続けた。
「その焦り、どこから来ているんでしょう?」男性は彼女に優しく問いかけた。
「多分、自分の中の不安から来ているんだと思います。このままじゃ何も変わらないんじゃないかって。でも、それが何なのか、自分でもよく分からなくて…」彼女の表情には、どこか迷いが見えた。
「その不安と向き合うことも、今は大事かもしれませんね」と男性は軽くうなずいた。
この対話を聞いていたN氏は、どこか引っかかるものを感じ始めていた。二人のやり取りはとても穏やかで、お互いを尊重し合っているようだ。N氏もその中に入って対話に参加したいとすら思った。
だが、何かが噛み合っていないような印象を受けていた。
N氏はそのまま耳を傾け続けた。
会話の流れは少し変わり、今度は女性が男性に問いかけた。
「最近、あなた自身はどうですか?何か考えていることがあるんじゃないですか?」彼女は少し首を傾げながら、柔らかく問いかけた。
男性は少し驚いたように目を細めて、「僕ですか?そうですね…最近は、なんだか自分が何を望んでいるのかが、よく分からなくなっていて」
「何を望んでいるか、分からなくなっているんですね」と彼女は彼の言葉を受け止めるように繰り返した。「それって、どんな時に感じますか?」
「最近、仕事で忙しいのもあって、自分自身と向き合う時間がなくて…いつの間にか、何をしたいのか分からなくなっているんですよね」男性は少しうつむきながら話した。
「その忙しさが、あなたの気持ちを見えにくくしているのかもしれませんね」と彼女は穏やかに続けた。「でも、そう感じるのも自然なことだと思いますよ」
「そうですかね…」男性は少し考え込むように視線を落とした。「何かしなきゃと思っても、やるべきことがたくさんあって、それに追われてしまっている感じなんです」
「その中で、何かひとつでも、自分が大切にしていることはありますか?」彼女はゆっくりと彼に問いかけた。
「大切にしていること…うーん、今は何も思いつかないですね」と彼は苦笑した。「昔は、自分のやりたいことがはっきりしていたんですけど、今は何もかもがぼんやりしていて」
「そう感じること自体が、今のあなたのリアルなんですね」と彼女は軽くうなずいた。「そのぼんやりした感覚を受け入れることも、大切なのかもしれませんね」
「そうかもしれません…でも、どうすればいいんだろうって考えてしまうんですよね」と男性は静かに答えた。「今はただ、立ち止まって自分を見つめる時間が必要なのかもしれません」
やがて、二人はお会計を済ませて席を立った。彼らの間には確かに良い雰囲気が漂っていたが、どこかお互いが楽しくなさそうに見えた。N氏はその光景をぼんやりと見送りながら、心の中で何かが引っかかるのを感じた。
N氏はその会話を聞きながら、再び自分の机に目をやった。カウンセラーの資格取得のためのテキストが開かれていた。
そこには「非指示的カウンセリング」と書かれていた。
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