彼岸ノ月ガ廻ル刻 第三話【創作大賞2024漫画原作部門応募作】

第三話 世界《セカイ》

◆(目を覚ました伊吹の視界)真っ白な天井

伊吹(あー……保健室の臭い)

 伊吹はそろそろと首を動かし、室内を見回す。
 窓には厚手の白いカーテン。
 家具は伊吹が寝ているベッドとサイドテーブル。ベッドの脇にはパイプ椅子が三脚。
 そのうちの一脚に、黒いショートジャケットに黒いパンツ姿の黒髪の男が、鞘に収まった刀を支えにして眠っていた。

伊吹(誰っ? 刀、本物?)

 おそるおそる起き上がると、パチッ、と小さな泡が弾けるような音がした。
 すぐに男が顔を上げた。
 年齢は二十代半ばから後半ほど。やや長めの前髪から、紅茶色の瞳が覗く。
 男は気だるげな表情で伊吹の顔をじっと見つめ、薄い唇を開いた。

男「あー……キタガワイブキ君?」

 男は棒読みの口調で言って、首を右に傾けた。

伊吹「……はい。そうです」

 伊吹は背筋を伸ばし、掛け布団を固く握りしめた。

遊佐「怯えなくていい。俺は遊佐ゆさ征一郎せいいちろう。一ノ瀬飛鳥と陵六花は覚えてるか? あの二人の上司? 保護者? みたいなもんだ。あの二人から話は聞いたし、大体の話は聞いただろ?」
伊吹「はい。あの二人はどうしてますか? それとここってどこですか?」
遊佐「あいつらは一度帰らせた。ここは術師の組織、八曜はちようかんの東都支部の医務室」

 遊佐はジャケットのポケットを漁りながら言うと、スマートフォンを引っ張り出した。
 何か操作したあと、伊吹に向ける。
 映っているのは、サーモンピンクの髪と金色の瞳をした二十歳ほどの青年と笑顔の六花、うんざりした表情の飛鳥だった。
 三人の背後にあるカレンダーは《2027年2月》となっている。

伊吹(二〇二七年なんだ……ん?)

スマートフォンの時間【7:10】

伊吹「今って朝の七時ですか?」
遊佐「時間の考えが同じなら」
伊吹「俺、半日以上寝てたんですか?」
遊佐「そうなるな、あ」

 遊佐の声にノックの音が重なる。
 引き戸が開き、現れたのは写真に写っていた青年だった。
 手にしている白いトレイには、湯気の立つマグカップとコーヒーカップが三つ載っている。

恭介「おっはよう! 北川伊吹君だよね。俺はさくらきょうすけ。陵六花は覚えてる? 俺は六花の従兄。体調はどう? いろいろあったみたいだから、熱っぽいとかダルいとか」
御影「恭介、うるさいわよ。私はかげみお。よろしくね」

 恭介に続いて茶色の紙袋を持った女性がやってきた。
 年齢は遊佐と同じくらい。
 セミロングの栗色の髪、猫のような大きな目が特徴的な、華やかな顔立ちをしている。
 恭介は黒いショートジャケットに黒いパンツ、御影は黒いロングジャケットに黒いパンツという、やはり黒ずくめの服装だ。

伊吹「初めまして。よろしくお願いします」
御影「恭介じゃないけど、体調はどう?」

 伊吹は自分の体を見下ろした。
 高校の制服ではなく紺色のジャージ。スニーカーも床にきちんと揃えられている。
 少しだけ痛む右手の手のひらには絆創膏が貼ってある。
 光を掴み、老女を斬った時の感触を思い出す。

伊吹(あれも、夢じゃないんだよな)
御影「どこか調子悪い?」

 心配そうに目を細める御影の問いに、伊吹は首をブンブンと左右に振った。

伊吹「大丈夫です。すっごく元気です!」
恭介「なら良かった。意識も受け答えもはっきりしてるし、瘴気の影響はなそうかな。いいっすよね、遊佐さん」
遊佐「ああ」
御影「それでこれ君の服。汚れてたから勝手に洗濯しちゃったけど」

 御影は茶色の紙袋を差し出した。
 中には高校の制服とタオルハンカチが丁寧に畳まれ、入っている。

伊吹「すみません。いろいろ、ありがとうございます」
御影「気にしなくていいわよ」

 伊吹と御影の様子を見ていた遊佐が恭介に尋ねた。

遊佐「なあ恭介、俺は未成年ズのなんになる?」
恭介「なんにって、成年後継人ですね」
遊佐「だって」

 遊佐は真面目な顔になって伊吹を見た。

御影「何よそのドヤ顔。てか、あんた今までなんの話ししてたの?」
遊佐「俺が未成年ズにとってなんなのか。あと時間の話」
御影「もっと他に話すことあるでしょうが! あとドヤ顔するならもっとしっかりして」
恭介「まあまあ、ミカさん。時間だってそんなになかったでしょうし。北川君、ずっと寝てたから喉渇いてるでしょ。牛乳とはちみつ平気? これはちみつミルクなんだけど」

 恭介は優しい笑顔でサイドテーブルにマグカップを置いた。

伊吹「大丈夫です」
恭介「熱いから気をつけてね。遊佐さん、コレ飲んでシャキッとして下さい」
遊佐「……おー」

 伊吹は、今にも寝そうな遊佐にコーヒーカップを渡す恭介の横顔を見つめた。

伊吹(陵さんの従兄ってことは、二〇三二年から来た女性のお孫さん?)

恭介「お? どうした?」

 伊吹の視線に気づいた恭介はにこりと笑った。

伊吹「あの、桜真さんもこの世界に来た女性のお孫さんですか?」
恭介「恭介でいいよ。オレは完全にこっちの世界の人間。オレたちは父親が兄弟なんだよ。六花のばあちゃんからそっちの世界のことは、なんとなく、それなりには聞いてるけどね。それより、冷めちゃうからどうぞ」
伊吹「はい、いただきます」

 白い湯気が鼻先をくすぐる。

伊吹(あったかい……)

 はちみつミルクを一口啜る。

伊吹(甘い……美味しい……)

 ほぅ、と安堵の息が零れた。

遊佐「で、飲みながらで悪いが聞いてくれ」

 遊佐はコーヒーを一口飲み、話し始めた。

◆百鬼夜行(伊吹のイメージ)
遊佐「この世界の日本には、古より《怪異》と総称される《人ならざる存在》がいる。
 それは妬みや恨み、猜疑心などが生み出す負の情念の塊や悪霊だったり、魂の宿った品物だったり、堕ちた神々だったりと種々様々だ。
 怪異に共通するのは、異形の生き物であり、人に害をなす《良くない存在》ということ。
 その怪異と闘い、祓うのが霊力を有した俺たち術師だ。
 ところが千年以上にも渡る怪異との闘いで、血族や流派、派閥で分かれていた術師は、たび重なる災害や戦争で少なかった数をさらに減らし、不安定な時代のなかで怪異はその数を増やしていく。
 このままでは絶えてしまう術師を纏めるために設立されたのが、ここ八曜機関だ」

 ここまで話すと、遊佐はまたコーヒーを一口飲んだ。

遊佐「とまあこんな感じ。で、ここに来る前に何があった? 何があってこの世界に来ることになった?」
伊吹「高校から帰る途中だったんですけど――」

 伊吹が話し終えると、遊佐は苦々しい声で呟いた。

遊佐「子供と声……子供なぁ」
御影「こっち由来、よね?」
恭介「になりますよね」

 御影と恭介の表情も硬い。

伊吹「あの……あの子は俺のこと、知っているみたい、だったんですけど」
遊佐「それは怪異が人に近づく時の常套手段だ。実際は知らないだろう。――恭介、子供と声のことは聞いてないよな?」
恭介「オレたちが聞いたのは、眩暈がして目が覚めたらこっちの世界にいた、だけですね」

 小さく頷いた遊佐は足を組んだ。
 左手で口元を隠し、感情を追い出すように深い息を吐いた。
 心配そうな顔で御影が尋ねる。

御影「遊佐、どうするの?」
遊佐「ここであれこれ考えても時間の無駄だ」

 遊佐はまっすぐ伊吹を見た。

遊佐「下手に期待を持たせなくないから先に言う。五人目までの記録はほとんど残っていない。だから彼らがどうなったかは不明だ。ただ陵の祖母の件から考えれば、帰れないと覚悟しておいて欲しい」
伊吹「……はい」

 伊吹はそっと視線を下げた。

伊吹(……なんとなく分かってた。すぐに、簡単に帰れない。だから……陵さんがいる……)

 伊吹は紙袋の中のタオルハンカチを手に取った。

伊吹(インターハイのお土産だったんだよな)

◆回想(一戸建ての北川家)
 玄関先には、高校の制服のセーラー服に大荷物のみちるが立っている。

みちる『負けた!』

 みちるはさっぱりとした表情で言った。

みちる『最初に打ち込まれた時に格の違いがはっきり分かったの。悔しいんだけど、それ以上に清々しいし、対戦できて本当に良かった。あー! でもやっぱり悔しい』
伊吹『インターハイお疲れ様。でも先に家に帰れよ』
みちる『すぐそこじゃん』

 あっけらかんとしたみちるの斜め後ろには、藤野家がある。
 伊吹は渋い顔をした。

伊吹『そうだけど、家に帰るまで、だろ。おじさんもおばさんも待ってるんだから』
みちる『でも先にお土産渡したかったの。お菓子は家族で食べてね。こっちは伊吹に』

 みちるはお菓子の入った紙袋と、ビニール袋に入ったタオルハンカチを差し出した。

伊吹『ありがと。わざわざ気を使わなくてもいいのに』
みちる『伊吹がくれたお守りのおかげで、元気に試合に出れたんだから」

 満面の笑顔のみちるが背負うリュックに付けている『身体健勝』のお守りが、光を浴びて輝いている。

◆回想終了
 伊吹はタオルハンカチを握った。

伊吹(どうか、みちるは無事に家に帰っていますように)