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魔境アラザルド13 風の峡谷④


 第一部 五王君


   三章 風の峡谷



      4



風刃君が倒された。

その命を絶ったのは、カルーン砂漠の魔人。

噂はたちまち広まり、無論のこと、その妹の王君『砂惑君』デルアリーナにも伝わることになる。
彼女は自城『金砂玉楼』の私室の長椅子に腰掛け、兄の到来をいつかいつかと待ち構えていた。

「これで、王君が1人減って、4人になった…しかも自分で討ち滅ぼしたのよ? だれに遠慮がいると言うの? ジルが五王君の1人となることに! 素晴らしいわ! 兄と揃って王君だなんて! 私はずっとこのときを待ってたの! だって、ジルは私を含め、だれよりも強いのだから! 私は最初から分かっているの! あの黒炎君に敵うのも、ジルだけだと。きっと決心してくれるわよね…ねえ、フェレメア?」

「…左様でございますね。風刃君を討たれたとなれば、どなたも反論できないでしょう」

亜麻色の髪の側近、碧い瞳のフェレメアは、はしゃぐ主人の無邪気さに苦笑と微笑を入り混じらせた。卓の上に薄荷を搾った冷たい砂糖水と、カカオの菓子を置く。

「当然よ。あとは、本人の意思だけなんだけど…頑なな性格だから心配なのよね」

「ですが、砂惑さま。もし、夢漠さまが『王君』になることを固辞されたとしても、それはそれで兄君の株は上がるのでは?」

「どういうこと?」

「ご自分の強さを誇示し、王君になる資質を見せつける為でなく、あくまで、殺戮を好まれた災いの王君、風刃君を打倒するのが目的だったと堂々と言うことができます。つまり、野心からではなく正義の心からであると」


「そうねぇ…。でも、私は!」



「……『私は』なんだ?」


「ジル!」


デルアリーナの瞳が輝く。
噂の兄が、自らこちらの話に興味を示してくるなんて滅多にないことだった。


「聞いてたのなら、分かるでしょ。一緒に『王君』としてやっていきましょう? 風刃君は悪いけど、死んで然るべき人よ。罪もない人々を数えきれないほど殺しているのだもの。ジルはその人より強いのよ。『王君』に相応しいわ!」



「…どうでもいい。それより」



しかし、彼女の提案はあっさりと受け流される。デルアリーナは諦めきれないまま、膨れっ面で兄を睨むと、忠実な側近に言った。


「どうでもよくないわよ、もう! 人が真剣に誘ってるっていうのに……悪いわね、フェレメア。下がってもらえる?」


亜麻色の髪の女は、丁寧に頭を下げて退出した。


「…どうかしたの?」


「お前に会わせておこうと思って…」


彼は妹を直視せず呟くと、ぱちんと指を鳴らした。


白絹の太い帯でぐるぐる巻きにされた女が、透明なガラスのような結界牢に閉じ込められている。


「…知ってるだろ」


「…ええ、知ってるわ」


デルアリーナは、女に近づく。

「久しぶりね。なぜ、あなたがここにいるのかしら? 兄に近寄ったの? あれだけ近寄るなと言ったのに。懲りないお馬鹿さんね」

拘束され、うつむいた女はのろのろと顔を上げ、ハッと息を呑んだ。


「…さ、砂惑さま」


「覚えていたの? 私のことを。忘れていいとも言ったわよね」


鋭い言葉を投げ放ち、砂漠の王君は彼女らしくない思いやりの欠片もない眼差しで、女を刺す。


「忘れられるはずがありませぬ! あなた様は、私の唯一無二の主君なれば!!」


そう叫ぶと、女の空気を孕みふわりとしていた白い髪が見る間に真っ黒な長い硬質の髪へと変わる。


「エメルシス…何のつもり?」


砂惑君は、深い溜息を吐いた。





夜に溶け込む闇の炎を星空に掲げた彼は、目を細め、己れの内から迸るその熱を、頭上の鎌のような銀月に向かって投げ放った。


漆黒の炎は、砲丸ほどの大きさから蜘蛛が糸を張り巡らすよりも遥かに遠大に広がった。目には細い月の欠けている部分をもすべて覆い尽くしているように見えるほどだが、それが消えた後で、見上げた月には焼け焦げた跡すら見えない。


彼は舌打ちをし、口を歪める。


「俺の相手は、誰だ…?」


アリーセル魔境主の居城『風刃貴岩城』の地下に飛ばした意識に映し出されたのは、弓矢で喉を射抜かれ、白目を剥いた魔境主たる風の王君の命と、恐らくその命よりも大事な“自尊心”という彼女の存在意義全てと言っても良いものを、見る影もなく粉砕された様子だった。

手の十指は全て切断され、手首、足首、肘、膝の骨もまたぐしゃぐしゃに押し潰され、肩関節、股関節もあらぬ方向に捻じ曲げられていた。
また腹を割られ、粘膜で覆われた巨大ミミズのような臓腑も引っ張り出され、力なく腐り干涸びていくところへ羽虫の群れが飛び回る。

血溜まりが出来ていないのは、失血死しないように、その苦しみが長引くように、止血の魔法が施されているためだった。

しかし、あれだけ身体を破壊されている状態では、既に悶死していてもおかしくはない。
実際、風刃君の身体からは、呼気も心音も感じられなかった。


所謂、拷問死だ。


喉を射抜いたのは、言わずと知れたあの男だろうが、それだけで致命傷なのを、更に苦痛を加えるべく、アリーセルの奴隷部屋へ投げ込んだのだろう。自分の奴隷たちに痛ぶられ嬲り殺される。


これもまた、彼女の屈辱感を煽る死といえよう。


自業自得であり、同情の余地など全くないが、あの男がここまでするのだと、意外に思った。


「肝心なところでヌルい野郎だと思ってたのに、今回は本当に容赦ねぇことしやがったな…」


呟きながら、首を横に振り、彼は再び月に向かって投げる。
その黒炎の玉から生じた暗黒の高温熱波の地獄の火幕を彼は黒く光る瞳で見つめる。


「やっぱり、お前なのか…? 俺とやり合えるだけの力を持つ魔人は…」


エリンフィルトは漂うように、ゆらりゆらりと坂道を下るほどの速さで、地上に戻ってきた。


「星空の散歩?」


マリュネーラが微笑み、無表情な彼を出迎える。


「馬鹿が…月の野郎がムカついたから、失せろと言ってきただけだ」


彼の言葉に従ったわけではなかろうが、細く闇に削られた白い月は、今度は青黒い雲の波に覆われて、姿を隠し、どうにか居場所を知らせるほどの朧な光をゆらゆらと透過するのみとなった。
それでも、そのわずかな明るさで深い暗黒の絶望から心を救ってくれている。


「お月様が嫌いなの?」


「ああ、好きにはなれねーな。俺は、新月の月のない真っ暗な闇夜に生まれたんだ。生まれた時から相性が悪い」


「そうなんだ、私は真夏の一番お日様の長い日の一番日差しが強い昼間に生まれたって…お母さんが言ってたな」


「…真逆だな。俺は真冬の真夜中だ」


そして、その暗い真冬の長い夜に、明るい希望の光となる炎ではなく、絶望の影のような暗黒の炎を生み出す力を持って生まれてきた赤子。


もう定かではない、幼い頃の記憶の断片。




『悪魔! お前は、悪魔の子だ!』




誰かに罵られ、石をぶつけられたりした。



「…悪魔の子、上等だよ」



くぐもった低い声でぽつりと呟く。



「エリン?」



「お前は良かったな。夏の真っ昼間に生まれたのか……太陽の申し子だな」


「なに? 太陽? それより、もう中に入りなよ。あんた、黒髪のくせに夜でも目立つんだからさ」


マリュネーラが促す。

エリンフィルトは、クスクスと肩を震わせて笑うと、少女に言う。


「教えてやる……俺はな、子どもの頃、村の『予言者』って婆ァに言われたんだ。“お前は1000年は生きられない。だが、999歳までは生きられる。1000歳の誕生日の前日までは”とな!」


『悪魔は999年生きるが、1000年になる直前に死ぬものだ』


村の伝承だった。
それに倣った予言だと容易に分かるのだが、老婆はくすりとも笑わない。
真剣そのものである。


馬鹿らしい。


こんな素人の年寄りの『予言』とやらに、振り回される自分が本当に、馬鹿らしい。


「…エリン、中に入ろう。眠らないでいいの? 休んだほうがいいよ」


彼女の言葉に「ふん」と言い、彼は彼女の横を足早に通り過ぎて、宿の中に入って行った。


「え、999年まで。…って、あと1年くらい?」



先日、自分は998歳だと言っていたと思う。


マリュネーラは彼の後ろ姿を見送りながら、独り言のように言う。


掛かっていた青黒い雲が湾曲した剣のような細い月を通り過ぎると、辺りは少し明るくなった。





砂漠の只中に聳える強化砂岩の自城に戻った彼は、誰にも帰城を告げず、無言で私室に入り、扉に固い施錠をした。
真っ白な石鹸の香りのする敷布に飛び込むように寝台の上に寝転ぶと、息を大きく吐き出す。


「…どうか、なさいましたか?」


私室の壁の向こうには仕込まれた隠し部屋があった。何もないように見えた白い漆喰が、不意に人1人が通れるほどの細長い楕円の口を開け、中から、隠し部屋にいたらしい1人の女が現れた。


「べつに…」


いつものように、彼は答え、女から視線を逸らす。


「夢漠さま」

「……なんだ」


「…何でもありませぬ。こうしてお名前をお呼びすれば、どんなふうであれ、あなたは応じてくださいます。本当に、それだけで心が躍るのでございます」



「変わった女だな」


「…承知のうえにございます」


女は言いながら、自然な足取りで室内の戸棚の前に行き、グラスを2個取り出すと、一度隠し部屋のほうに戻り、その向こうにあるらしい“氷室”から冷えた白葡萄酒の瓶を手に、再び彼の元に姿を見せた。そして、1つのグラスになみなみと注ぎ、もう1つのグラスには半分ほど注ぐ。
なみなみと注いだほうのグラスを彼の寝台の枕元にあるランプを載せた小さな白亜の円卓に置き、自分は半分のほうを手にする。



「……なぜ、“白”にした?」



彼は常には“赤”を好む。それも、深ければ深いほど良く、黒と見紛うほど深い熟成した“赤”を好んだ。女もそれは承知しているはずだった。



「私が飲みたかったのでございます。それに、あなたも喉が渇いていらっしゃるように見えましたので、飲みやすい“白”に…」


「……ふーん」


彼は起き上がり、白葡萄酒を口にした。

女の言うとおり、確かに自分は喉が渇いていたようだ。冷たい酒は心地よく喉元を滑り下りていった。そして次に口を付けたときは、彼はもう半分以上を一息にごくごくと飲んでいた。


女は彼の横に立ち、舐めるように一口ずつそれを口に運んでいたが、不意にグラスを円卓に置き、細密な幾何学模様の絨毯の上に片膝を着き、首を垂れて畏まる。


「なんだ……?」


何事か分からず、彼が問うと、女はひざまずいて、視線を絨毯に落としたまま答える。


「…たいへん、失礼いたします。私のような卑賤な身が決して目にしてはならぬものです…恐れながら、鏡でお顔をご覧になってみてください」


彼は魔法で書斎の机の引出しの奥に仕舞ってある手鏡を呼び出すと、己れの顔を映した。


「あ…」


何故気づかなかった?


鏡の中にいたのは、琥珀色の両眼から透明な液体を止めどなく流している、いかにも柔そうな細面の男だった。
情けなく、眉を垂れ、口を歪めている。


「はは…」


彼は思わず自嘲の声をあげた。


「夢漠さま?」


「……今度も、やはり駄目か。今回は十分に憎しみを育てたうえでの『殺し』だから大丈夫だと思ったんだが……まだ俺は人の命を奪うことを恐ろしく感じているらしい……」

手鏡を置いた彼は、流したまま、拭わぬまま、その瞳の為すがまま、呟くように女の名を呼んだ。


「…オーガニール」


女は躊躇いがちに顔を上げたが、そんな彼女に彼はそのままの顔を自ら近づけ、催眠をかけるでもなく、普通に頼むように言い聞かせた。


「…見るな。そして、決して言うな」

癖のある赤い髪の女は、その長い髪を前に垂らしたまま、ただ黙ってまた絨毯の幾何学模様をじっと見つめた。



《私室に閉じこもる、ジルヴィード》




デルアリーナは、許すことはできなかった。


あなた様のことを片時も忘れたことはない。
あなた様に再びお仕えしたかった、でもそれはあなた様の逆鱗に触れた自分には決して叶わぬことゆえ、その原因となった「彼」にその怨念を向け、仕返しをすることでこの一途な満たされぬ心を紛らわそうとしたと、女は語った。


「本当に、あの子は…何も分かっていなかったのね」


デルアリーナは、フェレメアの運んできたお茶を飲み、豆粒ほどの丸い氷砂糖を口の中で転がした。舌の上でほぐれたそれは、甘い液体となって彼女の喉を通っていく。

風刃君が弓矢で喉を射抜かれて、兄に捕らわれた後、遅ればせにやってきた白い髪に褐色の肌をした風変わりな女を白い絹帯でぐるぐる巻きにして捉えたのは兄の側近であるコルフィンだったらしい。
「我が君の仇!!」と叫んで兄を襲ってきた女に、コルフィンは「我が君に何をするか!!」と応戦し、戦いの末、そうなったのだというが、コルフィンの魔力は女のそれよりも優っていたようで、案外あっさりと終わったらしい。


「それにしても、なぜあの子はジルをああも蔑むほどに嫌っていたのかしらね? 嫉妬というだけなら、私にも分かるのだけれど…」


自分に注がれるべき主君の愛をも独占している主君の兄、それなのに、その兄は主君の愛を邪険に突っ撥ねる。その様子が気に入らず、兄を嫌っている…そこまでは理解できるのだが。


「恐れながら、愚見を申し上げても宜しいでしょうか?」


フェレメアが、控えめに申し出る。


「もちろん、構わなくてよ」


「はい。では申し上げます」


透明度の高い碧い目を、砂惑君の魅惑の琥珀色の目に真っ直ぐに向け、フェレメアは話し出す。


「愚見では、彼女は『王君信者』なのではないかと。…“王君に仕えること”を至上の喜びとする者たちです。それによって、己れの価値も上がると考えているのです。
夢漠さまのことは、王君ではないため、蔑んでいたのでしょう。
つまり、“王君に仕える”自分は、“王君ではない”魔人よりも身分が『上』だと考えていたのだと思います。
それなのに、自分の“王君”をないがしろに扱っているように見えた“王君ではない”夢漠さま。
それが許せなかった。
『王君』で“ある”か“ない”か。それしか頭にない者たちなのです。
ゆえに、“王君に仕える”自分のほうが偉いのですから、“王君ではない”夢漠さまには、どんな無礼も無礼とも思わず働けたのだろうと思われます」


「…『王君信者』? 聞いたことはあったけど、なるほど…そうだったのかもしれないわね。要するに、あの子にとって、『王君』でなかったら、私も蔑む対象だったということね」


「あくまで、推測ですが…」



そして、改めて思う。

彼女の誰よりも大切な双子の兄を、こっぴどく侮辱し、その繊細な心を深く傷つけた彼女を…。

やはり、許すことはできないと。


「ジルは優しいから、許していたけれど、私は絶対に許さないわ…!」


デルアリーナは椅子の傍らに置いていた布袋に砂を詰めて作った人形を手に取り、粘着物を使って壁に貼り付けると、まず人形の両目に針を刺し込んだ。次に両側の耳穴、手のひら、足の甲、肩、脚の付け根、下腹部…と次々に刺す。
そして、最後に心の臓の辺りに短剣を突き刺して腹を割いた。


「さようなら」

彼女は呟き、人形の腹からこぼれ落ちていく砂が袋から全て無くなる様を、しばらくじっと無表情に眺めていた。






【文末コラム 13】三章終了。


ここまでお読みいただきまして、いつも誠に有難うございます。


「三章 風の峡谷」が終了いたしました。
この回は、決戦後のジルヴィード、ウィランネの正体、デルアリーナの決断、エリンフィルトの悩み?…など、新たな要素も加わった回となりました。


次回より、新章「四章 闇の炎」①をスタートします。


はっきりしない天気が続いております。この湿気と暑さで、うちは不快害虫Gを始めとするハエやクモなどが増殖しています…(だから夏はイヤなんじゃよ)会社の仕事だけでなく、家でも虫ストレスで、泣けてきますが、心身共に健康に気をつけて頑張りましょう!


またのご拝読、どうぞよろしくお願い致します。



みさとかりん






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