魔境アラザルド12 風の峡谷③
第一部 五王君
三章 風の峡谷
3
鋭い冷気を孕んだ風をその身に纏わり付かせながら、風刃君サラウィーンは居城をやや離れた峡谷沿いの中空にひらりと舞い立ち、久々の強魔人との手合せに胸を高鳴らせていた。
敵は、己れの強烈な存在感を隠すことなく、彼女を待ち構えていた。
彼の意識の網がこの自分という憎き獲物を、どうあっても取り逃さぬように張り巡らされている。
それにしても、あの男…。
ここまで強い『気』だったか?
この魔力の波動のようなものは、今まで誰からも感じたことがないほど強い。これが本物だとすれば、彼女の片目を傷つけたあの日は、かなり抑制された状態だったと言わざるを得ない。
まだ姿すら見えない距離なのに、そう思える。
だからといって、恐怖を感じ、おののくような彼女ではないが。
「『殺し合い』…いい響きだのぅ」
サラウィーンは独りつぶやいて、舌舐めずりした。どう痛ぶってやろうかと思案する。王君たる自分を傷つけ、愚弄した罪は重い。最大級の苦痛を与えてやらねば気が済まない。
「…殺し、合い、だと?」
声は後ろからした。
背中に刃物を突き刺されたように、風刃君はぎょっとして振り返る。
「そなた、いつのまに!」
「…貴様。思った以上に、鈍いな」
「おのれ…!」
すかさず風の刃を投げつけてやるが、放った先にいたのは幻影だ。刃は虚しく空を斬る。
「俺は一歩も動いていないぞ」
近くに聞こえた声は、彼の魔術であり、実際には彼女が認識している場所から全く動いていない。離れた場所から遠隔で幻覚を見せられたのだ。
「何をしている? 早く来いよ」
「やかましい!」
完全に相手の思うがままだ。
サラウィーンは歯軋りし、中空のその場で地団駄を踏みまくった。悔しくてならない。
それでも、彼女は何とか自我を取り戻し、冷静になろうと努めた。
しかし、怒りの源泉は渾々と湧き出て止まない。
彼女は呼吸を整えることだけに集中するように、息を吸い込み、長く吐き出した。
身体の中に“風”を取り込むのだ。
自分は風魔を操る、魔人の頂点…王君なのだ。
“風”を自在に扱う者だ。
「やっと、風魔の上級魔術を繰り出す気になったのか…随分と下に見てくれたものだな」
ジルヴィードは口を歪めたが、べつに身構えを変えるわけではなかった。
「俺の半分くらいしか生きてないくせに…生意気なんだよ」
「わたくしは、660年生きておる! 半分以上は生きておろうが! そして、そなたよりも長く生きる!」
「だが、今の俺には、まだまだ子どもだ。…まさか将来まで待てとでもいうのかよ?」
「ふざけおって!!」
「本心だが?」
彼女の自尊心を踏みにじりながら、彼はせせら笑う。
ただ、彼女は分かり始めていた。
先程の声の魔術は、風魔を使った魔術だ。
つまり、自分の声を風に乗せて、彼女にのみ大きく聞こえるように操ったのだ。
上級とは言わないまでも、幻覚操作を含む風魔の中でも、比較的高度な術だった。それをいとも軽く扱うのだから、彼の技量はかなりのものだった。
…このままでは、勝てぬやもしれぬ。
サラウィーンは覚悟を決めた。
無論、負けるつもりなどさらさらない。
覚悟を決める…とは、己れの真の強さを相手に知らしめることだ。
「まあ、良い」
いつもの彼女らしくなく、妥協するようにふと呟くと、唇の両端をクイッと持ち上げた。
「余裕を見せていられるのも、今のうちぞ。必ず吠え面をかかせてやるゆえ…」
「へえ…、それは楽しみだ」
ジルヴィードもまた口角を上げて見せるが、かすかな警戒心を抱く。自信家の無駄口を気安く信じるほど若くはない。
けれども、備えておくに越したことはなかった。
「…見よ。わたくしの真の姿を!」
サラウィーンは言い放ち、天に両腕を掲げた。
同時に、唐突にすべてを攫うような大風が、天より下るがごとくひと風吹いたかと思うと、うねりながら、雲をも巻き込んで回転を始めた。
そうして青みを帯びた白灰色の“大竜巻”があの黒き『幻影騎馬団』の巨大さと禍々しさを模したように忽然と姿を現した。
周囲を脅やかしながら、竜巻の内側では激しく稲妻が走り、不吉な雲の塊がもぞもぞと蠢く。
ガラガラガラッ!!
ピカッ!!
光が強く閃いて。
ドドドドドドドド…ガ、ガシャーン!!!
そして、それは“大竜巻”の中心にいるサラウィーンの上に落ちたように見えた。
「ぎゃああああぁぁ…!! アアアァァァ!!」
凄まじい断末魔のような、風を引き裂く叫びが空に響き渡る。
「…なんだ? ガキが年嵩を待たせやがって。なに、独りで勝手に騒いでるんだか」
砂漠の魔人は腕組みをして、止んだ風と声の合間より出でようとする、風の王君を見やる。
吹き荒れるあの大風の中でも、彼はやはりその場を動くことはなかった。
「フフフ…」
女の不敵な笑声が空気を伝う。
呼吸を整えながら、サラウィーンは顔にまとわり付いていた最後の雲を振り払い、その姿を晒す。
「待たせて悪かった」
女は、身体のあちこちに青白い雷電を走らせ、顔以外の全身に青い旋風を巻き付かせていた。
そして、白銀色から変化し、七色に煌めく長い髪を大きくなびかせる。
その容貌は、先程よりほんの少し若返っているが、魔力は何倍にも強化されていた。
強魔人の中でも、特に強大な魔力を有する者にはいつもの己れよりも数段階能力を向上させた姿に変じられる者がいる。
但し、その姿を保つのに相当な体力を削られるようで、あまり長い時間その姿ではいられない。
ゆえに早々に決着させる勝算がある場合には有効だが、そうでない場合は追い込まれる危険性もあった。
「それが、貴様の『真性形』か…?」
「そういうことゆえ、覚悟せよ」
「ふーん…」
ジルヴィードは無表情に風刃君を眺めた。
「そなたは『真性形』を持たぬのか? 妹の王君は持つと聞いておるが?」
「……使うところもない。このままで負けたこともない」
「ほほ、つまり持たぬということか。妹と比べて不完全な、“出来損ないの兄”というわけじゃな。気の毒にのぅ…ふふふ」
女の挑発に乗るわけではない。
だが、女の言うことは間違ってはいない。
自分には『真性形』が無い。
だが、自分が言ったことも間違ってはいない。
この姿のままで彼は一度も負けたことなどなかった。持っていたとしても、その姿になる機会もなかった。
必要なかった。
ただ、デルアリーナにはあるのに、自分にはない……それは、やはり自分は妹に劣る者ということだろう。
この邪悪な女の言うとおり“出来損ないの兄”なのだ。妹の残り滓なのだ。今の状態でどんなに強くても…妹より強くても…それは変わらない。妹が『真性形』を取れば敵うはずもないのだから…。
「ならば、貴様は“出来損ないの兄”たる俺に惨殺される残念な王君というわけだ」
「なんじゃと?」
「…悪いが、俺に弄ばれて地獄に堕ちる貴様の未来は変わらない」
「おのれ! 負け犬とはそなたのことぞ!」
無数の風刃が嵐のように、一斉に彼に襲いかかる。それはいくら強魔人といえど、1人に対する量ではない。それを矢継ぎ早に幾重にも幾重にも絶え間なく襲わせる。
『真性形』ゆえに出来る術である。鋭い切先がかの魔人の全身を切り刻み、血飛沫と共に肉片骨片ことごとく散り散りになり、影も形も無くなっている様を、サラウィーンは思い描いていた。
「減らず口も、もう利けぬであろう!」
彼女が勝利を確信し、攻勢を緩めたときだった。
ドスッ、という軽い音が背後から聞こえた。
「馬鹿の一つ覚えが…芸がない」
呆れたように息を吐く男。
あのときの旅人の姿ではなく、琥珀色の両眼と黄褐色の髪を後ろで結えた彼本来の姿だった。逆光で黒く影が勝っていたものの、その瞳は黄金のようにギラリと光り、捕らえた獲物を品定めしている狩人の眼だった。
「…分かっただろう? これは『殺し合い』なんかじゃない。俺の一方的な『殺し』だ……さて、これからどうやって痛ぶってやろうか? 俺は貴様と違って『拷問』は不得意なんでな…いい案があれば、教えてくれよ。……ああ、もう口は利けないか」
先程の音は、サラウィーンの背後に転移した彼が彼女の首の後ろに弓を使って矢を射し込んだ音だった。喉を貫通している。
「血は止めてある。失血死はしないから安心するがいい。息ができない? 鼻も口も塞いではいないぞ? ああ、でも気道は潰れてるから、肺にまで空気が行かないか。苦しいか? フッ。そうだ…もっと苦しめよ。貴様のくだらないお遊びで切り刻まれて命を落とした者たちの苦しみは、こんなものではないぞ? 声も上げられないだろう? 助けを呼ぶ暇もなく貴様に命を奪われた者たちの気持ちを少しは味わえ。ふざけてる…と、さっき貴様は言ったな? 貴様こそ、ふざけるな! 貴様の命など彼らの尊い命と比べたら、塵ほどでもないが、その罪はこの無限の蒼穹を貫くほど高く、地中の彼方奥深くにあるという冥界を脅かして余りあるほど重い。地獄に行っても忘れるなよ。既に心が腐乱している貴様を死に追いやるのは俺だが、そのようにさせたのは貴様自身だということを! 貴様自身の数多の虐殺の悪行そのものだということを!」
白目を剥いて、血の泡を口から噴き出す女の顔を彼はつぶさに見つめながら、まだ聞こえているであろう耳に艶やかにさえ響く声で囁く。
「おい…まだ死ぬなよ」
やにわに険しい目つきになるが、声を荒げることはなく、そのままの静謐さを保ったまま、彼は彼女にまだ喘ぎ苦しむことを命じる。
「俺の友人たちを殺して俺の心を踏みにじった俺の貴様への怨念はまだ全くすすがれちゃいないんだよ…。これでクレストやアラクの命を返してくれるなら、このくらいで逝かせてやってもいいが、無能な貴様にそんな芸当が出来るわけもない。もう少し付き合え…」
ジルヴィードは死にかけている女の身体を冷却の魔法で氷塊の中に閉じ込めて凍らせた。
そして、それと共に地上に降り立つ。
コルフィンが出迎える。
「我が君…」
「待たせたな。もう、大体終わった。後は、これをアリーセルに持ち帰り、こいつの奴隷たちに私刑させた後、完全に息の根を止めるだけだ」
氷の中に封じられた、絶命寸前の『風刃君』の見るも無惨な姿がそこにある。
「ご無事で何よりです。あとは側近の女ですか…来ませんでしたね」
「…そうだな。だが、そのうち来るだろう」
「はい」
コルフィンは、風の王君を相手に若干の心配をしていた自分の愚かさを自戒した。
自分の主人はまったくの無傷で、五王君の一角であるこの女をものともせず、翻弄し、圧倒するほどの強者なのだ。
彼は改めて、気高き己が唯一の主君を誇らしく思った。
「思ってたよりも、随分と呆気なかったな…」
朱炎の魔人は独り呟く。
気配を消して、アリーセル峡谷にまでやってきて、砂漠の魔人が『風刃君』をどう料理するのかを偵察していた。
砂漠の魔人、夢漠は人一倍勘の鋭い男だ。どんなに優れた密偵を送ったとしても、必ず見抜き、必ず捕捉する。
今回、初めに送った密偵の赤い髪の女は、捨て石のつもりだった。まだ若く経験も浅い。そして、彼の予測どおりすぐに見つかったのだろう。あの後、全く音沙汰が無いところをみると、処分されたか、脅されて寝返ったか…というところだろう。
2番目に送った、青い髪の女ソレイヌも、結局足がつきそうになった為、早急に引き上げさせた。最初に送った女のことも調べ切ることはできなかったが、代わりに別の情報を持ち帰ってきた。
「風刃君のナバルの村で行なった虐殺を受け、砂漠の魔人は珍しく怒り狂っているようだった」
これは面白いことになった、と彼は思った。
ソレイヌを風刃君の偵察として潜入させた。こちらは自信過剰で細かいことは気にしない、明晰さとはかけ離れた王君だ。隠すことなど何もないと思っているのだろう。容易く懐に入り込めた。
ウィランネの存在もソレイヌからの情報だった。白い髪には不自然な褐色肌…変じ損ねのような容貌から、何か謂くがありそうだと対面してみたら、案の定、腹の底までは見せなかったが、明らかに夢漠に敵意を持っている。この存在を消したいが為に、単純な風刃君を焚き付け、片目を損じた復讐を始めさせたのだろう。
今は密偵たちなどでは、すぐ勘づかれてしまうので、こうして自らアリーセルまで出向いてきたわけだが…。
勝者は分かっていたものの、もう少し競った戦いになるのではないかと思っていた。
「風刃君が弱すぎるというより…彼が強すぎると言ったほうが正しいようだな」
朱炎の魔人、朱燎は思う。
『真性形』の風刃君は決して弱くはなかった。あの風の刃の嵐のような猛攻は凄まじかった。しかし、恐らくあれが始まる寸前に彼は瞬間転移でもう彼女の背後を取っていたのではないか?
そして、彼女が嫌う弱者の武器である“弓”で、彼女を追い詰めた。屈辱に次ぐ屈辱を与える為だ。
“完全勝利”と言わざるを得ないだろう。
あの後の、サラウィーンの行く末は決まっていた。恐らく夢漠が息の根を止めるより先に、自らが散々痛ぶった奴隷たちや虐め尽くした部下どもに嬲り殺しにされるに違いない。
「…さあ、どうする? ウィランネ?」
すぐ後ろに平伏する女の気配を感じて、彼は問いかける。
「………仇討ち、いえ、彼を消しまする!」
「君だけで出来るのかな? 彼は最上級の強魔人だよ。見ただろう?」
「何か思案がありますのか?」
「今のところ、無いね…だから、しばし待て」
「待てませぬ!」
女の気配は消えた。
「…無鉄砲な女だ。自爆覚悟ならべつに止めはしないが、自爆したところで彼には何の痛手もないだろう」
朱燎はまた呟いて、峡谷の向こうに連なる山並みに目を細め、足元に流れるアリーセル川の、大岩をも打ち砕くような激流の音を聞く。
彼の主君も近くにいた。
姿を見せれば、嫌悪されることは分かっている。
「我が君であれば、夢漠どのとて決して勝てますまい。私のただ1人の主人なれば…」
それでも、ただひたすらに黒炎君…エリンフィルトを慕わずにはいられない彼は泥酔したような夢心地の声でそう言った。
【文末コラム 12】決戦。
ここまでお読みいただきまして、いつも有難うございます。
今回は、風刃君と夢漠の“決戦”を主に書かせていただきました。エリンフィルトとマリュネーラのやり取りはお休みになりましたが、次回は恐らく登場すると思います。
次回は、第一部 三章 風の峡谷 4 です。
その次は、四章 へと進む予定です。
また次回も、ご拝読のほど、よろしくお願いいたします!
みさとかりん