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魔境アラザルド1 〜序章〜

序章 白い梟

        1

夜が明けて、地平より闇を打ち消す光の一矢が放たれ、無数の葉群れが盛大に輝き出した。
『魔神の大樹』は、この森で一番早く目覚める者だ。
その巨大な樹の根元へと、今朝も兄は小走りに向っていく。
枝から枝へと飛び回る赤や青、黄や桃色の色とりどりの小鳥たちがちゅんちゅんと口々に囀り、早い朝を知らせる。
兄は毎朝食事ができるまでの間、それを眺めるのを日課にしているのだが、今朝はなぜか少し寝坊してしまったようで、小鳥たちへの挨拶もその分遅れてしまったようだ。
妹がそれに付き合うことは稀だったが、今朝は早口に「付き合えよ」と珍しく声をかけられたので、付き合ってみることにする。
いつも遠い枝にいる白い梟が、今日は近くにいるなと思ったが、それ以外は特にいつもと変わらない平和な朝の光景だ。
「いつまで見てるのー? もう行こうよ」
そして、妹はやはりすぐに飽きる。
「…もう少しだけ。今日はちょっと遅れたからラナイが怒ってるけど、みんな楽しそうだ」
いらいらと急かす妹に、兄は弾んだ声で答える。
「そう? ずっと同じ鳴き声でつまんない」
兄は上を見たまま言う。
「そうかなぁ、いろいろな鳴き方をしていて面白いと思うんだけどな」
妹は呆れて大きく息を吐いた。そして、喉が乾いたからと告げ、近くにある泉へと水を飲みに行ってしまった。

    2

妹に置き去りにされた兄は苦笑して、首を揉みながら、ふと視線を樹上から地上へと落とす。
そのとき、突然、あまりにも不意に、一人の『老婆』が眼前に現れた。
じっとこちらを見て微笑んでいる。
驚いて声も出ない彼に、黙って乾いた手のひらを差し出して見せる。
何かが載っている。
小さな種のような黒い小石だ。
「きれいな石!」
彼が思わず叫ぶと『老婆』はうんうんと頷いて更に微笑んだ。
「あなたに、あげますよ」
若々しくはないが、言葉は明瞭だった。
彼は『老婆』の様子を伺いながら、恐る恐るそれを指先でつまむ。
それは、星々を散りばめた夜の天空をぎゅっと握り締めて凝縮したような小さな小さな宇宙のようだった。それが陽射しの加減できらきらと瞬いて何とも言えず美しい…。宝石だろうか。
訊ねようと、上げた目線の先にはもう『老婆』はいなかった。石を握ったまま、彼はきょろきょろと探すが、どこにもいない。
彼が途方に暮れていると、妹が戻ってきて「どうしたの?」と訊ねる。
「人に会わなかった?」
妹はぽかんとして、
「人に? だれにも会わなかったけど」
「そうか…」
頭の上でばさばさっという羽音がして、彼は、ふと思い出す。
「そうだ。見ろよ、この石! きれいだろう!」
妹は覗き込むが、眉を顰めて兄に言う。
「石? なに言ってるのよ、なんにもないじゃないの」
兄が開いた手のひらには何も入っていなかった。
「えっ? ええ!」
兄は驚いていた。そして、慌てて辺りに落ちていないかと足下を探し、自分の腹や背中を触ったりしていたが見つからないようだ。
「…夢でも見てたんじゃないの?」
妹の言葉に、兄はがっかりしたように俯いて「そうだな…」と呟く。
「中に入ろう、もう朝ごはんできるよ」
妹に手を引かれて、兄はそれに従う。
「きれいな石だったのになぁ。なんかすごい力を感じたんだけどなぁ…」
兄の声は、口惜しげに響いたが、妹は聞く耳もなく、兄の気が変わらぬうちにと、食卓へと急いでいた。
その背後で、白い梟のグォーという低い一声がして、風が震えた。

   3

…あの黒い小石は、どこに行ったんだろう。
彼は自分の手のひらをじっと見つめて考える。感触は確かにあった。なのに、いつのまにか無くなっていた。
朝食が運ばれてきた。
彼は卵と菜っ葉の粥を食べながら、今朝のことを思い出す。
いつもより深い眠りだった。
暗闇で誰かの囁きかけるような声がした。
…がんばるんだよ、がんばるんだよ。
そう言っているように聞こえた。
がんばるって、何を?
…抱えきれないほどのものをもらうから、がんばるんだよ。
声が続ける。
だから、何を?
…いずれ分かるよ。だから、がんばるんだよ。
もどかしい夢だ。
そのせいで、少し起きるのが遅れた。いつもは小鳥の囀りと共に目が覚めるのに、今朝は小鳥たちが歌い始めてかなり経っていた。
いつもと違う感覚。
それで、何となく不安になり、妹も誘った。
赤い小鳥のラナイが遅いぞと怒っていて、それを周りの黄色いムステや青いフルラが笑いながら宥め、桃色のナーナは怯えて泣く。
気になったのは、一羽だけいつも少し離れた枝に止まっている純白の梟、長老ルビサが、今朝は何故か彼の近くの枝に止まっていて、無言のまま神妙な視線を向けていたことだ。
妹は案の定、すぐに呆れて、泉のほうへ行ってしまった。
その隙に、起きた出来事。
あの『老婆』は何者だったのだろう。
なぜあの黒い小石を彼に与えたのだろう。
そして、あの小石はどこに消えてしまったのだろう。
分からないことだらけだ。
妹が戻ってくると、ルビサはいつもの枝に戻っていったが、帰っていく兄妹の背後で、滅多に鳴かないのになぜか今日は一際大きな声で鳴いた。
考えすぎだろうか。
「いつまで食べてるの? 今日はどうしたのよ。今日からおじ様に剣のおけいこをつけてもらうんでしょ? 急いだほうがいいんじゃない?」
いつのまにか手が止まっていたようだ。
「あ…」
そうだった。
昨日、十歳になったのを機に、今日から叔父アルトーンに剣術を教えてもらうことになっていたのだ。
彼はお粥をかき込んで、慌てて部屋に戻って身支度をした。


【文末コラム1】白い梟

ここまで読んで下さって、どうも有り難うございます。

淡々と始まりましたが、次回から少しずつ盛り上げていこうと思っております。

今回のイラストは「白い梟」になりました。章名と同じです。ちょっと暗示的な登場者ですが、梟は幸福の鳥として扱われることがよくあります(不苦労、福老など)ので、初回を読んでいただいた皆様に更なる幸福が訪れますように、との意味も込めて描いてみました。
なんかラッキーな感じしません?白い梟🤍

次回は、第一部 一章 幻影騎馬団 1  です。

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