『我が家の新しい読書論』7-1
ESくん
あらためて聞いたことがなかったけど、松岡正剛さんの「編集工学」って、要約するとどういうものなの?
網口渓太
そうねぇ、「編集工学」を問われると難しいかもしれない。ボクも専門ではないからね。だけど「編集」についてちょっと話すと、まず編集っていうのは、ごちゃごちゃしているものをシンプルに分かりやすくするだけではないということ。逆にそうやって分かりやすく出来上がっているものを解体して作りなすのも編集のまだ基本の範囲だし、面白いのはその先の言語化しずらいけど、たしかに現象はある領域の編集だね。モゾモゾザワザワしてる。
このブラックボックスの中を分析しながら、未知を生み出しているのが編集工学かな。情報のもとを研究したり、歴史の出来事を調べたり、いろんな分野のアーティストとコラボレーションしたり、捉え所を簡単には掴ませてもらえないものだね。情報が発している微弱な振動に耳をすませて、引っ張ったり弛めたりといろいろな方法を用いて強弱を与えながら、対立も共振も一緒くたにして何かを其処此処に生み出す。こうした立場からシステムや組織、イメージの生成過程を見る研究を「編集工学」といっている、こんな感じで伝わるかな。
ESくん
ありがとう、よく分かった。色々な物事を“情報”として扱って、複雑なものを複雑に扱うイメージが浮かんできたよ。
網口渓太
いいね。たとえばコップも普段は当たり前に食器とか日用品くらいの認識で流して使っているけど、一度立ち止まって、よくよくコップという情報体が発する声に耳を澄ましてみるとどうだろう。もしかしたら、今すぐ楽器としていい音を奏でられるかもしれないし、じっくり観察してみたら芸術品のようにうっとりしてしまうかもしれない。
EMちゃん
それって……
網口渓太
そう、まるでデュシャンとかウォーホルみたいだね。また、コップを使う側である人にカメラを動かしてみると、そのコップを手にとろうとした瞬間に、手はコップの格好になっているわけで、このとき自分は“コップ化”している。コーヒーカップだったら手指のかたちを合わせていく必要性が生まれるし、缶コーヒーなら躊躇なく鷲掴みにするはず。途中でサンドイッチをほおばるシチュエーションが加わると、さらにまた新しい手法を組み合わせていることになる。この仕組みを本と読者に置き換えると、実はこの手が「読書」なんだよね。だから、読書は=編集なんよ。
EMちゃん
へぇ、読書と編集工学ってつながるのね。あいだにあるのは遊びかしら。
ESくん
数寄とかこだわりとも近いんじゃないかな。こだわりとは「昔から自分はこうだった」ということって、『勉強の哲学』で千葉雅也さんが書いてたの思い出すな。
網口渓太
この本いいよね。たしかに「欲望年表」って、「数寄年表」と言ってもいいかも。クセ(曲)とノリ(節)の年表だなぁ。
年表は読書ノートの形式のひとつだね。
EMちゃん
色んなファッションを試すし、触れているカルチャーが王道ではないからか、ちょっと世間からズレてるような疎外感を感じてたんだけど、何だかこのまま邪道でもいいじゃんって思えてきたわ。かわいいし。
網口渓太
ふたりは同世代で好みが合う人を探すのに苦労するだろうね。でも国内だけに絞ったとしても、全然いるよ。EMちゃんは20世紀の初頭とか5、60年代のカルチャーが好き。ESくんはいつもまだ見ぬ近未来の世界の見方を教えてくれるあと日本文化。
ESくん
「小数なれど熟したり」(笑) 織部焼の歪んだ茶碗とか、完全を求めない「事足りぬ美」とかタイプ。
網口渓太
だから家とも合うんだよ。ESくんは落合陽一ぽいし、EMちゃんはファッションデザイナーのkieさんみたい。
ESくん
そうかも。でね、古田織部は千利休が追求した「侘び」の美を、いったん自由な方向に解き放ったんだよ。で、続いて登場した小堀遠州は、和歌や俳句が重視した「寂び」(さびしさの感覚)を茶の湯や室内意匠にとり入れて、そこに華やかな趣向を加えて、「きれいさび」というものを考案した。この「わび」とか「さび」の感覚が、その考案者たちによって次々に変容していくことを、日本では「すさび」とか「数寄」といって継承されているんだよね。もちろん、今の日本のポップスやアートにも、そのミームは受け継がれているはず。
あっ、そうだ! EMちゃん、あれあれ。
EMちゃん
あれ? あー、あれね、Ok! 渓太くん、ワタシたち実は今日ジーンズ買ってきてるのよ。今からこの新品のジーンズにダメージを加えて、色落ちもさせて、お揃いのダメージデニム作りましょう!
ESくん
まるでグランジだ。EMちゃんはやることが粋だなぁ。
網口渓太
面白そうじゃん! 早速始めようよ!
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