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小説 淫らな闇

     1
「ヘルパーさん、帰ったよ。シーちゃん」
 そう言いながら、階下から上がって来たタツオは、甚平とパンツをつつっと脱ぎ、無造作にベッドの足許に投げやった。そして、タオルケットをめくり、引き締まった体をシズカの脇に滑らせた。
「またまた、素っ裸になって。あとで、モリナガさんが来るんでしょう。恥ずかしいったらありゃしないわ」
「何をいまさら。それに、モリナガとは雇い手と雇い人というより、兄弟分のような間柄や。わしに不都合なことは、後継者候補のモリナガにとっても不都合なことや。ここで見たり、聞いたりしたことをほかに漏らすようなことは、金輪際ありゃしないよ。それよりも、ベッドの背上げをしておくれ」
「こんなに、夜更けて、表が、随分と、にぎやかだったようやけど、めずらしいことも、あるねえ」
 切れ切れの嗄れ声でそう言い切ると、シズカは枕元にあったスイッチを慣れた手つきで操作した。ベッドは低いモーター音を響かせながら、シズカの上半身を持ち上げていく。
「ブハブハ、ブンブンがやりたい盛りのお兄さんが迷い込んで来たんやろう。今夜は曇って月もすっかり隠れている。急に静かになったのは、細い路地の暗さに迷うて、海にでも飛び込んだのかもしれんな」
「ブンブン兄さんの前にも、だれかが、横丁を、走って行ったわ」
〈そんなことより、シーちゃん。気持ちだけ尻を持ち上げ加減になっておくれ。そのタイミングで、わしが体を潜り込ませるから〉
〈頭じゃ、それそれって、その気にはなっているんだけれど。腰から下が抜け落ちてしまったようで、何の素振りもありゃしない〉
「タッちゃん。多少は、荒っぽくしてもらっても、かまやしないよ」
「介護ベッドも、ラブホテルのダブルベッドまでとは言わんが、ふたりがゆるりと寝れるぐらいの広さがあるといいのになあ」
 タツオは股の間にシズカの尻を挟み込み、上半身は広い胸と腕の間にすっぽりと収めた。吐く息ばかりが目立つ呼吸にことさらの乱れがないか、顔を寄せて確かめる。
〈いまいましい癌野郎や。肉をこそげるだけじゃ足りんで、骨までしゃぶっているにちがいない。初めてシーちゃんの肌に触れたのは、わしが16になったばかりやったが、あんときは、胸に指を置くと、ツ、ツーと花芯まで滑っていくようような柔肌にどきついてしもうたわ〉
 ヘルパーが帰る前に浴衣を着替えさせてくれた。柑橘系の洗剤の匂いが、ふっとタツオの鼻孔をくすぐる。タツオはシズカの帯の結び目を解き、ゆるんだ浴衣の合わせ目から両の手を差し込む。シズカの胸の前で腕を交差させ、右の掌で鳩尾(みぞおち)あたり、左で陰毛にかかるあたりをそろそろと押さえた。
〈痛いところは、ここらかい〉
〈そうやって、掌を当ててくれるだけで、さっきまでのキリキリがどこかに消えていくようだ。祓(はら)い清められたようで、すっきりする〉
「あしたは」と、タツオが言いかけたところで、だれかが外を忍んで歩くような気配がした。
「モリナガさん、かねえ」と、身を固くして振り返るシズカを、タツオは腕の力をいくぶん強めて抱きしめた。
「モリナガがやって来るには早すぎる。パチンコ屋もひところとちごうて、売上金の回収だけで1日が終わる時代やのうなった。何から何まで、コンピュータや。まるで情報の商売やで。競争相手の状況まで読み取らないかん。分析をちょこっとまちがえただけで、どえらい損をする。それに、パチンコのほかにも金の出入りがあるし、モリナガが来るにはまだまだ時間がかかるはずじゃ」
「じゃあ。さっきの、足音は」
「どうせ、さっきのバイク坊やが海から這い上がって逃げて行くくらいの話やろう」
〈ここがどういうところか、だれのもんか、それなりの人間なら知ってるはずじゃ。知らずに入り込むのは、よそ者か、トウシロウのチンピラだろう〉
〈橋からこっちは全部タッちゃんのもんや。素っ裸で歩いたってだれに咎められることはない。それにしても、こんな夜の闇の中で、全裸の大男がすくっと立ちはだかれば、よほどの者でないかぎり逃げ出してしまうだろう。それに、いざとなれば、タッちゃんは闇の社会の人とも通じている〉
 シズカはタツオの太い右腕に顔を預け、頬ずりをした。
〈この右腕があたしの華奢な背中を抱え、左手がお尻を持ち上げる。ググッと両腕の筋肉が収斂したとき、あたしはタッちゃんに乗り移っていく。最後はいつもそうだった〉 
「さっき、タッちゃんが言いかけたのは、あしたが、オフミさんの、命日だって、ことだろう」
「おれの姉やんの命日、覚えていてくれたんか」  
「当たり前じゃないか。あたしはね、あの日から、自分の死ぬ日を、決めてんだ。オフミさんと、同じ日にしようっ、てね」
〈でも、この数週間、呼吸も楽だし、気分もいい。この分では、あした運よく事切れるのはむずかしそうだ。死に急ぐわけではないが、同じ日に死ねれば、あの世とやらで、オフミさんが笑って迎えてくれると思っていたのに。タッちゃんがきつーく、きつーく抱きしめてくれて、あたしの息を止めてくれればいいのに〉
〈シーちゃんは、何やら、忌まわしいことを考えてるのやないか。息づかいが荒うなった。姉やんの命日の話をしたわしがうかつやった。シーちゃんには姉やんの命の分までも生きてもらわないかんのや」
〈オフミさんが、あたしをタッちゃんに会わせてくれたから、思わぬ長生きができた〉
「なあ、あの岩山の、祠(ほこら)が、見とうなった」
「今晩は闇夜やから、鳥居と祠の区別もつかんじゃろうが……」
〈私の部屋だったここからは、あの岩山しか、見えんのや。それで、いつの間にか、あの山と、おしゃべりする癖が、ついてしもうて……。だから、たとえ真っ暗闇でも、あの山の仔細は、はっきりと目に浮かぶ〉
「ちょっとの間やぞ。夜風は体を冷やす。それに、心までが冷とうなるからな」
 そう言いながら、タツオは裸のままベッドを離れ、正面のカーテンをシャッと引き、ガラス窓を開け放った。窓の向こうには、半分くらいの高さに格子が張り出ている。その先に、五十メートルほども離れているだろうか、唐突という風情で黒い凝(しこ)のような岩山が盛り上がっている。
「あのてっぺんに、うずくまって、朝まで、忍んでいた。空が、明るむころになっても、あたしとオフミさんの、決心は、変わらんじゃった。あたしたちは、朝日が、昇ってくる海に向かって、跳んだ……」
〈繋いだ手と手が離れるまでの記憶しかなかった。足首を縛った腰紐を、たがいに結び合う才覚がなかったことが、今でも悔しく腹立たしい〉
「間違いのう、死ねたと思うたのに、目を開けたら、目の前には、女衒(ぜげん)のツネゾウの顔があった。不機嫌な目つきで睨んでいた。悲しゅうなって、横を向いたら、隣に、筵(むしろ)をかぶせられたオフミさんが……」
〈シーちゃんの声と声の間が長うなった。それに時折鶏を絞めたような乾いた空咳が出る。この話を始めると、シーちゃんはいつも繰り言ばかりだ〉
「もう、ええやろ。あの日のいきさつは何度も聞いて、警察の事情聴取に応えられるくらいに頭に入っとる」
〈そうや。そうや。この話は、あっちに行ってのオフミさんとの茶飲み話にとっておこう〉
 窓を閉めたタツオがベッドに戻って来る。 
〈タッちゃんはあたしより1歳(ひとつ)下やから、たしか六十五のはず。そんな年とはとても思えない体格やわ。肩の肉の盛り上がり。分厚い胸。引き締まった腹。それに、あの腿の太さ。そう言えば、タッちゃんの国の人とは、何人も相手をしたが、みんな立派な骨と筋肉の持ち主やった〉
「辛気くさい話より、いつものようにラブラブ連想ゲームといこうやないか。そっちの方が薬になるで」
 シズカが床について、タツオが退屈しのぎに考え出したお遊びだ。初めは、痛みのある部位を擦(さす)って癒そうとする戯れだった。しかし、痛みが和らいだときに、シズカの感じるところをくすぐったり、さすったり、揉んだり、次第に愛撫に変わっていった。興に乗ったタツオは全裸になり、後から、横からシズカを包み込んだ。ふたりは目を閉じ、こうやってあげたい、こうやってもらいたいと、情交の一部始終を交互に頭に思い浮かべる。タツオはシズカに、「今、何を考えていたんや。言うてみ」と問いただすことがある。人前では口にできないことばを交えて、シズカが恥ずかしそうに語るのを聞き、「わしも同じことを考えていたわ。わしらは、ホント、淫らな男と女やで」とカラカラ笑い、シズカの耳たぶを咬(か)み、うなじにキスの雨を降らす。
「また、そんな、淫らなものを、あたしの目の前に」
 シズカは、枕元に立って見下ろしてるタツオの、ふてぶてしく垂れた一物に目をやった。
〈シーちゃんがわしを淫らにしてしもうたんや。しかし、そのお陰や。真っ当なことをしてこなかった割に、わしは人を殺したり、傷つけたりはしなかった。淫らになるということは、気持ちようなること。そのためには、人に優しゅうなること。シーちゃんの口癖や〉
「これの、淫らな使いようを教えてくれたんは、シーちゃん、あんたや」
 ちょっとばかり腰を引いて、タツオも自分のものに目をやった。
〈高まってくると、シーちゃんはわしに乗り移ってくるんや。するとだんだんに、わしの体中の生気が、まるで吸い寄せられるようにシーちゃんに集まっていく。わしは自分の体の中で、シーちゃんに揺さぶられ、さすられ、極楽に浮かんでいるような感じじゃ。言うたら、自分が丸ごと、優しさに包まれる気分や。そのうち何もかもが真っ白うなって、わしは脈動し、精を放つ。こんなちっこいシーちゃんがわしの痙攣を受け止め、共鳴する〉
 まるで模範生のようなシズカの病魔は、確実に体のあっちへ、こっちへと転移した。気分のいい時間は不快な時間に逆転されてしまった。そのころから、ふたりの交わりはない。「ええんよ」と言うシズカに、タツオは「いままでにいっぱい、気持ちのいいことをやってもろうたんやから」と言い、「せめて、指や、舌で」という申し出もやんわりと制した。
「ベッドに入る前に、要る物はないか。やってほしいことはないか」と、タツオが訊いた。シズカは、スポーツドリンクを口に含みたいと思ったが、それでなくとも頻尿に悩まされていて、そのたびにタツオの手を煩わしているので、「すまないねえ」とだけ応えた。
 タツオがベッドに腰を入れようとしたとき、階下でドンという鈍い音がした。屋内に何者かがいる。あとはシンとしたままだ。タツオは下着と甚平に手を伸ばし、すばやく身にまとった。常に修羅場が身近にあったことをうかがわせる身のこなしだった。  

     2
ミカはラブホテルの裏に回った。表を行くより、こちらの方が見つかりにくいだろうと考えたからだ。そこには、ホテルの屋上の淡いネオンに照らされて、車一台がやっと通れるほどの橋が浮かんでいた。橋を渡り切るあたりまではほのかな光が伸びていたが、その向こうは、海の急な深みのような漆黒の闇が立ちはだかっていた。
 迷わずに橋を渡った。ホテルを振り返った。数分前までミカが連れ込まれていた、海に面した2階の窓に動きはなかった。
〈あいつはまだシャワー中にちがいない。ここまでは自分でも驚くほどにうまくいった。裸のまま部屋を出て、服はエレベーターの中で身につけた。仲間を呼ばれるのを防ぐため、あいつの携帯電話も持ち出した。買ったばかりの自分の携帯電話が海に投げ捨てられた腹いせもあったが、これさえあれば親にだって、警察にだって連絡できる。それに何より、この中には自分のあられもない姿が収められている。そうだ、いの一番にやることは、この中の写真を消去することだ〉
 ミカは、小さな石ころを踏んだ。裸足で出て来たことに気がついた。まだまだ沈着に行動しなければならない。軽率に動いて、あの2階に連れ戻されるのは絶対に防がなければならない。そう自分に言い聞かせた。
〈こんなところで携帯電話を操作して画面が光れば、自分の居所を知らせるようなもの。この先の暗がりに入っていくのは怖い気もするが、こんな闇の中に自分を包み込むのも、かえって心が安らぐかもしれない〉
 さて、どっちに行ったものやらと、あたりをうかがっているうちに、暗さに目が慣れてきたのだろうか、巨大で黒い塊がミカの前に迫ってきた。
 船が浮かんでいる。初めミカの目にはそう映った。それも、何艘もが、海に向かって行儀よく。恐れずに近づくと、二階建ての建物が並んでいることが分かった。どこかで観たような気がした。天空に向かってそびえる城郭が舞台のアニメだった。しかし、この闇の中の建物からは人の気配はまったく感じられなかった。
〈撮影を終えて用なしになった映画のセットって、こんな感じかなあ〉
 ミカは建物に近づいた。そっと手を寄せると木の感触がした。温かい。こちらから語りかければ、ミカの話を黙って聞いてくれるのではないかと思った。
〈こんなことってあるんだ、とは思うけど、それが本当に自分の身の上に起きたなんて、やっぱり信じられない。だって、たったの24時間前だよ。ミタニ先輩のボーカルとギターに、溶けるくらいに酔っちゃって、気分よくライブハウスを出たのは〉
 ミカは壁に額を当て、強引に記憶をさかのぼった。
〈先輩の演奏は1年振りだった。先輩とは中学、高校と五年間もブラスバンド部で一緒だった。ゆうべは、プロデビューするツアーの初日で、地元からスタートして勢いをつけようという、先輩にとっては大事なライブだった。あたしにも絶対はずせないライブだった。ひとりで夜のライブなんて、両親と暮らしていたら許してもらえなかっただろうが、独り暮らしのあたしはだれにも遠慮せず自由に行動できる。それにしても、先輩のあの口許、あの指の動き、それに、あのリーバイスのジーンズ。先輩が望むなら、爆弾を体に巻きつけての自爆テロだって平気って気分。それくらいに盛り上がった〉
 ブハーン、ブハーン、ブンブン。エンジン音がミカの背に突き刺さった。
〈あいつだ! 逃げなくちゃ〉
 一棟目と二棟目の間の細い路地を走った。路地はまっすぐに、真っ黒な小山に向かっていた。狭い辻を抜けると、両側にまた同じような建物が並んでいた。小山の前には四角な入り口があった。目をこらすと、小さな鳥居だった。鳥居の前の丁字路を右に曲がった。ミカは真っ暗闇を平気で駆けている自分に驚いた。両眼が赤外線カメラになったようだ。薄ぼんやりだが視線の先を見とおすことができる。足の裏の痛みも感じない。
 目の前がひらけた。海だ。船だまりに使うためだろうか、堤防が小さく海を囲んでいる。
 背後からのバイクの音が、断続的にしじまの中で轟(とどろ)いている。ヘッドライトで探りながら、ゆっくりと確実にこちらに近づいて来る。突如、鳥居が白く映し出された。先ほどミカが駆けた路地にバイクを乗り入れたにちがいない。
 堤防の根っ子あたりに、海の中に下りる石段があった。ミカは臆せずに足をかけた。三段目で足首に海水がまといついた。ジーンズ、Tシャツが縮みながら張りついてきた。パンツもブラジャーもつけていないので、粗めの生地の感触が直接に皮膚に伝わってくる。8段下って腰を屈めると、首から上が海面に出るだけになった。
 さざ波ひとつない、ぬらぬらした海が目の前に広がっていた。このとき、ミカの心は平静だった。持ち出した携帯電話を、一段目の隅に隠す余裕があった。
〈『ソコノ、カーノジョ』。こう言ってあいつは声をかけてきた。全面を蔦で覆われたライブハウスの壁を背にしてたばこをふかしていた。『ミタニのライブ、楽しんでくれたかい』。あたしがうなずく前にたたみ込んできた。『ツアー初日の成功を祝って、飲み明かすんだけど、一緒にどう?』。『えっ。あたしが?』。『だって、ずいぶんと熱心に聴いてたじゃん』。あいつはあたしから目を逸らさずにしゃべった。色白で彫りの深い顔。あたしは思い出した。この人、会場の隅でミタニ先輩のマネージャーと親しそうに話をしていた人だわ、って〉
 海の上を白い光が走った。いらだたしそうな音が近くなった。バイクのライトが左から右に、防波堤を照らしていく。ミカは息を詰めて、移動する灯の先だけを目だけで追っていた。
〈先輩たちが来るまで、近くのカフェで待とう、ということになった。あたしは、ミタニさんの部活の後輩で、先輩を音楽的にとても尊敬している、という話をした。『誘ってよかった。ミタニのやつ、あんたを見たら喜ぶよ』。あいつはバイクを押しながら、そう言った〉
 海に暗さが戻り、排気音もいくぶん遠くに去った。しかし、執念深いあいつのことだ、まだまだ油断してはいけない、とミカは自分に言い聞かせた。
〈カフェで、あいつの注文した甘いカクテルを飲み干したあたりから記憶が飛んだ。ずっと記憶が飛んだままだったらどんなによかっただろう。サディストのあいつは、手応えのない肉体、声も上げない女では満足しなかった。だから、あたしの意識が覚めるようにと、わざと乱暴に体を組み敷き、何の潤いもないあたしを突き破り、荒々しく腰を振ったのだ。我に返ったあたしの目に、見下ろしているあいつの顔が映ったとき、あいつは目を閉じて小刻みな痙攣を繰り返していた。そして、あたしから離れると、テレビの前であぐらを組み、格闘技の試合を見始めた。あたしは仰向けのまま、顔だけ傾げてあいつの挙動をぼんやりと眺めていた。ぐらぐらと煮えたぎった湯の中に体を漬けられても、ちっとも熱さなんか感じない、そういう気分だった。お尻のあたりが不快だった。シーツに赤黒い染みが点在していた。あいつは観ていた試合が終わると、テレビをつけっぱなしにしたまま、またベッドに上がった。あたしの両足を開き、体を割ってきた。あたしに乗りかかると、『おまえ、初めてやったんか』と、目の中を覗き込み、フフッ、フフッと笑った。全身の皮膚をめくるような戦慄が走った。皮膚だけでなく内臓のあちこちもささくれていくようだった。『イヤー!』と絶叫する口に、あいつはあたしの下着をねじり込んだ。先ほど放出した痕跡で痛みは感じなかった。悔しいとか、悲しいとかの感情は頭に浮かんでこなかったが、涙と鼻水が止めどなくあふれてきた。ただ、自分の下着を噛みながら、『ウー、ウー』とうなり続けた。あいつは『ウルセーンダヨ』と、何度もあたしの頬を打った。痛みに声を途切らすと、そのたびに陽気なコマーシャルの音がテレビから聞こえてきた〉 
 ミカは石段に手をかけながら、海から這い上がった。目と耳をこらすと、闇と静寂が戻っていた。携帯電話を拾い上げた。まずやらなければならないのは、あの忌まわしい写真を消し去ることだった。ミカは石段に身を隠し、携帯電話を操作した。
〈2度目の最後は、あたしを裏返しにして、まるで猛獣のように咆えながら突いた。終わると、『アソコは念入りに洗っておけよ』と、あたしを浴室に行かせ、自分はテレビの前に座った。格闘技の番組はまだ続いていた。わたしは浴槽に湯を張った。カランからほとばしる湯を見ていると、バラバラに飛散していた思考の糸が徐々に縒(よ)り戻されていくようだった。あたしはそっと、そっと湯船に身を沈めた。湯の熱さが、陵辱の跡にしみ込んできた。肘や脛にも刺激痛が走った。バスルームを出ると、3人の丸坊主の男たちがテレビの前で格闘技を観ていた。まるで3体のお地蔵様が行儀よく並んでいるようだった。色はちがうが3人ともタンクトップの重ね着だった。男たちは一斉にあたしを振り返った。あいつは白のポロシャツとジーンズを身につけ、ドア近くの靴箱に寄りかかっていた。3人に向かって『オレ、酒と弁当、買ってくっから』と声をかけ、ついでにというふうに『こいつらのこと、頼むわ。おれも、シケてるときにまわしてもらってるからさ』と言った。また、あたしはベッドに運ばれた。ひとりが犯すとき、ふたりが手足を押さえつけた。彼らはあいつと同じように、キスや愛撫を一切せず、抜き差しを繰り返した。あいつがコンビニ弁当をぶら下げて帰ると、相手は4人になった〉
 えっ、これがあたし、という姿態と表情をなるべく見ないように、1枚、1枚を画面からはがしていった。4人の男たちはミカと接する部分だけが映っていた。それがだれのものか、いつのものか、見ただけでは分からなかった。全部が消えてしまうと笑いたい気分になった。笑いが出る前に、噛みつぶして飲み込んだ。舌先に苦い味が残った。さて次は、とミカはメニュー画面に目をやった。ひとつボタンを押せば、父と母と、七つ年の離れた妹が、ミカに微笑みかけている画面が現れるような気がした。家族は、高校に入学したばかりのミカを残して、父の転勤先に移って行った。残ることは、ミカが強く望んだのだ。クラリネットを吹く先に、ミタニ先輩の指揮棒がないことなんて考えられなかった。
〈警察に行こうか。それとも、学校の担任や顧問の先生のところか。2、3の友人か。もし可能なら、ミタニ先輩……。だめだ。あたしは、だれの視線にも耐えられそうにない。同情。憐憫。いたわり。あたしに投げかけることばはちがうだろうが、どれもが一層あたしを傷つけそうだ。あたしの望むことばだけをください。あたしの望むように抱きしめるだけにしてください。と言っても、彼らの方がとまどうにちがいない〉
 ミカはよろよろと来た道を引き返した。
〈ここは何と闇の深いところだろう。ここを抜ければ、あたしは現実のどれかを選択しなければならない。それとも、躊躇しているあたしを、だれかが見かねて、現実の中に放りだしてくれるのだろうか。そうなれば、あたしはもみくちゃの話題の少女になるだろう〉
 不思議に、死にたいとは思わなかった。この闇の中にいるせいだ、とミカは歩きながら思った。鳥居の前に来た。ふらふらとくぐると、斜めに上る石段があった。何もかもがこぢんまりとした設(しつら)えだった。
〈あたしに手を差し伸べてくれるかどうかは分からないが、ここを上れば祈ることができる。取りあえずそこまで行こう〉
 10段ほど上ると、人もくぐれないほどの鳥居がふたつ。その向こうに小さな石の祠。ミカはその前で手を合わせたが、祈りや願いのことばが出てこなかった。足許に夜風が這い上がってきた。濡れた服がひやひやし、ミカの体も冷えてきた。ミカは振り返り、背後の景色に目をやった。夜の暗さよりさらに黒々とした大きな建物が目の前にそびえている。並び方はちがうが10棟あまりが寄り添うようにどっかと立っている。その先には、ミカの連れ込まれたラブホテルや、倉庫群、フェリー乗り場などがあるはずだが、建物に隔てられて視界に入ってこない。わずかに、ドーム状に光を包みこんだ市街地の空が見渡せるだけだ。突如、一番近い建物の2階あたりに、切り取られたように窓が現れた。だいだい色の部屋がぼんやりと見える。窓辺近くにたくましい男が立ち、奥のベッドには誰かが寝ている。ふたりの目線はこちらに向いている。男は時折振り返り、ベッドの人に話しかけている。
〈あの部屋。あのふたり。ほかほかしている感じ〉
 奮い立たせてきた心も体も限界に近かった。ミカは、神仏に祈るという選択をせず、目の前のだいだい色の窓から現実に踏み出してみようと思った。

     3 
「裸になって、こっちにおいで」
 とんでもない現実を選んでしまった、とミカは激しく悔やんだが、もうほかの選択肢は考えられなかった。濡れた衣服を剥ぎ取るとベッドに入った。全裸のタツオがシズカを後から抱き、ミカはシズカと向き合う形で横たわった。高級そうな介護ベッドも三人が寝れば窮屈で、必然、体を寄せ合うようになる。シズカは浴衣の胸をはだけ、ミカの胸に合わせた。
「裸同士やと、すぐにあったこうなるよ」
 シズカは左手で、ミカの髪を撫でた。
「何や、あんたの方があったかいくらいやわ。若い子はええなあ」
 シズカの喉元がヒューヒューと鳴っている。あのときの、下着を噛んでこらえたときのあたしの唸り声とそっくりだわ、とミカは思った。とたんに目頭が膨れあがった。嗚咽が号泣に変わり、頭をシズカの胸に押しつけ咆えるように泣いた。
〈こりゃ、シーちゃんの体に障ってしまうわ〉
 心を読んだように、シズカは背後のタツオにつぶやいた。
「ええんよ。あんときと、同じやもの。あんとき、タッちゃんが、素っ裸で、抱きしめてくれんかったら、また、海に身を投げるか、首をくくるか、手首を切るかして、オフミさんの後を、追うてると思うわ。体と体を合わせた温かさは、心までもほかほかにするんよ」
〈タッちゃん。あんとき、あんたはたったの16やった。あのお金、どこから工面してきたんやろう。『ゼニを払えば、文句ないやろ』って店に啖呵を切り、2晩もあたしを買うてくれた。ろくにご飯も食べんと、あたしを抱きつづけてくれた。そのうちにあたしも、何や穏やかな心持ちになって。客を取るくらいなら死んだ方がましや、そう言うてオフミさんとも誓い合ったのに、水揚げしてくれるのがタッちゃんならええわ、それだったら、何やら生きて行けそうやわ。そう思うて、あたしと交わることなんて考えてもいなかったタッちゃんに、『あたしの中に入ってきて』ってすがりついた。あんときのタッちゃんの愛撫は初めてとは思えんくらいに繊細やった。深う、浅う、優しゅう、たくましゅうに扱うてくれて、だんだんに嫌なことも忘れてしもうて、『熱っ』って、タッちゃんの中に蒸発した〉
〈正直、あんときはシーちゃんやのうて、姉やんを抱いてるんや、そう思うてた。家族の生活のためや、と身を売った姉やんの、死んでも震えて泣いとる心を鎮めるためや、そう思うてた。それに、姉やんとは、だれにも知られとうない秘め事もある。あれは、あすの朝には女衒が迎えに来るという晩のことやった。姉やんがわしを家の外に呼び出して、『あたしを抱いておくれ』と必死の形相で迫ってきたんや。『そんな犬畜生のようなことはできんわ』と後ずさりすると、『どうせ、あっちにいけば、来る日も来る日も、犬畜生のようなことをせなあかん。せめて、初めてだけは金に買われとうない』。姉やんの威勢に押されて、わしは……。だが、途中で萎えてしもうて、ふたりで体寄せ合うて泣くだけじゃったが〉
「ここ、どこなんですか。街からそれほど離れているわけじゃないのに、外はあんなに暗くて、黒い大きな家が寄り集まっていて。ほかにも住んでいる人はいるんですか」
 ひとしきり泣き切ると、いまの自分が置かれた状況を知りたいという余裕がでてきたのか、ミカはわずかに上半身を起こして、タツオに訊ねた。 
「ここのほかは、空き家や。2、3軒は倉庫替わりに使うてるが」
「ここはね、遊郭だったところ。男が、お金で、女を買うところ」
 シズカは声を喉から絞り出すようにつけ加えた。 
〈あいつらは『もう、撃つ弾がのうなったわ』というくらいに、あたしをさんざんにもてあそんだ。丸刈りの3人が帰っていった後、あいつはつぶやいた。『金がのうなった。おまえの客を探してくるわ』って。あたしがお金の代償に犯される。これ以上ずたずたにされるのはいやだ。……こんな身の上話、この人たちは聴いてくれるかしら〉
「夜になるとね、ずいぶんと、賑わったころもあったんやけど、そんな商売は、やっちゃあいかん、という法律ができてね。その後も、旅館やなんぞと偽って、商売を続けてはいたんだが、結局、だんだんに、さびれてしもうて、廃業するところが、出始めた。そのたびにね、あたし、タッちゃんに『お願い。買うて』って、頼んだの。いまじゃ、ここ全部が、タッちゃんのものよ」
 ミカはシズカの表情をうかがいながら考えた。 
〈この女の人は顔色からも、声の力からも、かなりの重症の病気のようだが、どこかハッピーな感じがする。よれよれと命が細くなっていくことへの怖じ気がない。おじさんが裸になって肌を合わせているのは、失いつつある生気を吹き込んでいるためなのだろうか。そうでなければ、こんなにも滑らかな肌を保てるはずがない〉
「お金持ちなのね、おじさん」
「パチンコとか、ゲームセンターとか、ほかにも、いろいろ。商売するときの、顔ったら、こわーいのよ、このおじさん。でも、ここでは優しいの。ねえ、タッちゃん」
 シズカは両手の指の腹で、タツオの手の甲をさすった。
「おじさんとおばさん、夫婦じゃ、ないの?」
「ここにいるときだけの、パートナー」
「愛人?」
「そう。そう。その文字のとおり。愛している人、そして、人を愛す人」
「ここにやって来て、こうやってこの人と溶けそうになるまで抱き合うて、世間の埃や泥を払い落とす。生きるには、男にも女にも、こういうパートナーが必要なんだ」
 タツオは自分に言い聞かせるようにつぶやくと、掌を返し指をシズカの指に絡ませた。
「ふたりとも、あたしのこと、訊かないのね」
「疲れているんやろう。眠るといいわ。ここは安全よ」
「何もかもを、ぶちまけてしまわないと、眠れそうもない」
〈初めはボチボチだったのに、気がついたら、まるで自分のことではないみたいに早口でしゃべっていた〉
 いつの間にか、ミカもふたりと同じ方向で横たわっていた。目を閉じるとあまりに生々しいシーンが思い出されるので、目の前のサイドテーブルの、ティッシュやフェイスタオルなど、病人の身の回りの品を見ながら話をつづけた。シズカはミカの背後で、ころりと丸くなってタツオの腕の中にいた。時折、大きく息を吸い、小刻みに吐きだした。
 自分に起きた災難を伝えている。自分に降りかかった異変を聞いてくれている人がいる。そう思って話す内に、ミカの心に安堵感が広がった。筋肉のあちこちが弛緩していく。急激に眠気が襲ってきた。
 沈々と、時間が流れた。シズカの息の荒さも和らいでいる。とろとろとまどろんでいるらしい。タツオはそろりと身を離しベッドから下りた。サイドテーブルから携帯電話を取り上げ、部屋の隅の、普段ヘルパーが待機する椅子に座った。
「モリナガか。来る前に、ちょいと調べてもらいたいことができてな」
 タツオは壁に向かい、声をひそめた。 
「ダチ三人とツルんで、コマシやってるバイク野郎や。いまどき直管マフラーを吹かしてるようやから、すぐに分かるやろ。てっぺん張るようなお兄さんとは思えんが、バックにどこかの組がからんでないか、その情報もな」
「あ、それから、こっちに来るときに、ジャージの上下。女性用や。それに、パンツも、買うて来てくれ。えっ、サイズ? ナンボやろ。見たとこ普通やな。まだ、ドンキが開いてるやろ」
〈さて、獣の兄(あん)ちゃんには、どんなお仕置きがええやろ〉
 切れ切れのタツオの声に耳を澄ませ、シズカは夢想する。
〈いっそあたしが、そのチンピラを殺してしまおうかしら。モリナガさんに無理に頼んでここに連れてきてもらいさえすれば、逃げた女の居場所を知らせるからとあたしの枕元に呼び寄せて、隙を見計らってカミソリで頸動脈をクッ、と。返す刃であたしの首も引く。これで、あたしもオフミさんと同じ日に旅立てる……〉

     4
〈あたしの体が、杭になって海にまっすぐに立っている。さっきまで首あたりだった潮水が口許まで差してきて、鼻先に迫っている。はるか向こうの岸壁に、お父さんとお母さん、そして、妹もいる。学校の先生も、友人たちもいる。あたしの知らない人もいる。岸からこぼれ落ちるくらいの数だ。こんなにもあたしが叫んで助けを求めているのに、声が届いていないのだろうか。だれもがあたしの方を指さし、大笑いしている。ああ。ああ……、鼻から水が。お終いだ。あっ。あたしの顎にだれかの手が添えられ、わずかに体が持ち上がったところに、両脇にたくましい腕が割り込んできた。あたしは軽々と水中から引き揚げられ、空中で足をばたばたさせている。あたしは、あたしは丸裸。ああ。ああ……〉
「夢だよ。それは、夢だよ」
 肩口を揺さぶられ、ミカはそろそろと目を開いた。目の前の男の顔も、男の背後の天井も、まるで見覚えがない。自分がだれなのかさえ認識できない。それくらいに深い眠りに溶けていた。
「かわいそうに」 
 ミカの後から、タオルケットを肩口まで上げてくれた人がいる。振り向くと、透きとおるほどの白い肌で、顔はどこかで見たような。「そう。美術の教科書の浮世絵の女(ひと)」。あらためて、はだけた浴衣からこぼれる胸を見る。そして、思わず自分の胸に手をやる。薄い胸に冷たい指先が触れる。あたしは裸……。一挙に、ああ、そうだった。ずたずただった記憶の回路が組み立てられていく。みぞおちあたりからクッ、クッと吐き気が這い上がってきた。下腹には尿意も感じた。胸を隠して、上半身を起こした。分厚いカーテンの隙間のあちこちで、ちらちらと陽の光が遊んでいる。
「お手洗いね。廊下を出て、右にまっすぐの、突き当たり。ベッドの下のものを、着るのよ」
〈おばさんにはあたしの心が読めるのかしら。わっ、真っ赤なジャージと真っ白なパンツ〉
 催す状況が差し迫っていた。ミカはきちんと畳まれた衣服をすばやく身につけ、トイレに走り込んだ。長い放尿を終えると、いくらか気分が治まった。結局、吐きはしなかった。そういえば、胃の中は空っぽだった。きのうの朝、コンビニ弁当のご飯だけを半分くらい飲み込んで以来、何も口に入れていなかった。
 部屋に戻る廊下が足を踏み出すごとに、ギュッとか、クッとか鳴った。ミカの目にも、かなりの老朽家屋であることが分かった。
 襖を開けると、部屋の状況が一変していた。
〈えっ。えっ。この変わりようは、何? おじさんは白いスーツに変身。ひとり掛けの椅子にどっかと腰を下ろしている。ベージュのシャツと、ピンクのネクタイとお揃いのポケットチーフ。筋骨のたくましい人に見えたが、ここまで隆々とした凄みのある男だったとは〉
 ミカはタツオの変身振りに驚いたが、それよりも、タツオの脇に男がふたり急に現れたことにもびっくりした。一方はスーツとネクタイを紺で統一したビジネスマン風。もうひとりはジーンズに黒いTシャツ。両人とも顔を伏せて、まるでタツオに控える供侍のように正座している。シズカは背上げしたベッドに上半身を起こし、3人と対座している。
〈みんなはあたしが部屋に戻るのを待っていたようだ。それにしても、何とすばやい舞台の展開だろう〉
「そこにお掛け」
〈おじさんがベッドの横の椅子を指差した。とても座り心地のいい椅子だ。おばさんがサイドレールの下に右手を伸ばしてきた。あたしも左手を出しきつく握り返した〉
「おい、この人に何か言いたいことがあるんだろう」
 Tシャツの男の両肩がギクッと動き、頭が右に傾いだ。〈あ、サンマのようだわ、とあたしの頭にテレビの画面が一瞬浮かんで消えた。で、サンマを見たのは格闘技の後の番組だった……〉
 ミカは消えた画面をもう一度呼び戻そうとした。
〈どんな番組だったか、って。それは無理だよ。乱暴されているとき、チラリと横目に入ってきただけだから〉
「ちゃんと頭を下げて、はっきりと言うんだよ」 
 紺スーツが、若いに似合わないドスの利いた声で、Tシャツの後ろ髪を鷲づかみにし、床に押しつけた。
「ギャー」
 叫んだのは、ミカだった。ミカの絶叫は一度だけだったが、ずいぶん長い時間のように感じられた。その間、シズカは握る手に力を込め続けた。
〈何で、あいつがここにいるの。何で、何で、なのよ〉 全身を震わせて、ミカの前にひれ伏しているのは、あいつだった。歯の根が合わぬ口調で、「ユルシ……。ユルシ……」と繰り返している。あいつの後にタツオが立った。
「『許してくれ』やて。お前のしたことが許される思うとんのか。そうやなかったろう、さっきわしが言うて聞かせたんは」
 Tシャツ男は、「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」と、伏したままタツオの足許に取りすがった。タツオは両腕を背中に捻りあげた。
「だれに謝っとんじゃ。どうやらお前、まだまだオノレの犯した罪がよう分かっとらんようやの。わしが恐いんで、一時のしのぎに頭を下げとるとしか思えん。そんならそれで、わし流にやらせてもらおうかの。2度とこんな悪さがでけんように、竿も玉も切り取ってやろうか。それとも、これ以上の悪行を重ねられんように、この際人間をやめるか。この湾を出たとこに、絶対に岸には打ちあげられん早瀬があるちゅう話を聞いたことがあるんやが」
 タツオは男の腕をさらに背中深くに捻りあげ、イタタと立ちあがるTシャツをミカの前近くに運んだ。紺スーツは万が一に備えてだろうか、タツオの半歩脇に控えた。ミカはまっすぐにTシャツ男を睨みつけていた。色白で整った顔立ちはしているが、時折突き出す口許も、落ち着かない目の玉も、ピクピクさせている小鼻も、表情のどこもかしこもがふてぶてしく、醜悪であった。
 タツオが右手は捻りあげたまま、首筋の生え際あたりを押さえると、Tシャツはたまらずに崩れ落ち、ミカの足許にうずくまった。
 Tシャツは、「さあ」と促すタツオに、間髪入れず両手をついて伏し、「スンマセンデシタ」とうめいた。「スンマセンじゃない。スイマセンじゃ、このドアホが」とタツオは拳固を丸め頭を叩いた。そして、再び首根っこを押さえながらモリナガに引き渡し、「連れてけ」と命じた。さらに、「よう見張っとけ。ほかの三人もな」とつけ加えた。Tシャツは、これが限界だというくらいに頭を垂れ、部屋から連れ出されて行った。タツオはシズカとミカに手を重ねた。
「強姦は気持ちいいセックスの敵や。相手のことなど考えずに、自分だけがピッピと果てて満足する、それも集団でやるやなんて、動物にも劣る振る舞いじゃ。裁判では手加減せんとこらしめてやりなさい。ただ、あいつらは未成年じゃ。少年院に数年という程度じゃろ。それじゃあ気持ちが治まらんと思うたら、ここを訪ねておいで」
 ミカは何やら思いつめた表情で、タツオを見上げた。
「そんなことじゃなくて、おふたりに会いに来ちゃいけませんか」
「こんな恐いおっちゃんと、病人のおばちゃんのところへかい?」
「裸でベッド。気に入っちゃった」
「そのことは内緒だよ。特に患者思いの、きびしいヘルパーさんには。そう言えば、そろそろ現れる頃合いだ」 タツオはサイドテーブルの時計に目をやった。  
 
     5
〈ヘルパーさんとあたしの一日が始まった。きょうがきのうとちがうのは、タッちゃんがほとんど1時間おきくらいに電話をかけてくることだ。ゆうべのことで、あたしに障りが出ないかを案じているらしい。たしかに頭の中心がフッフッと昂(たかぶ)っているし、ヘルパーさんが体温計の目盛りを見て顔をしかめているが、生きていてあしたのことを考えている自分が久しぶりで、何や穏やかな気分や。何度目かの電話のとき、送っていったあの子の様子をタッちゃんが話してくれた。車に乗る前、ゆうべの身を沈めた海を見たい、と言うから一緒に行ったそうだ。干潮の船だまりの石段はほとんどが波の上に顔を出していたそうやが、あの子はいきなりその石段に携帯電話を叩きつけたらしい。『さっき、めちゃくちゃに殴りつけてやりたかったけど、できなかったから』って。その後、祠にも上って、まるで現場検証の刑事の気分だったって、タッちゃんは苦笑いをしていた。車に戻るとき、ここが気に入った、この建物も、この路地も、それにこんなすてきなところにあたしたちだけしかいないってこともすばらしいと、大層な感動振りやったそうな。在りし日に、欲望と歓楽を求めてやってきた男たちや、そこで体を張って生きていた女たちがいたことなんか、知るはずもない娘がその廃墟をまるで癒しの場のように感じ、はしゃいでいるのを目の当たりにして複雑な気分やったと、タッちゃんはしんみりしていた。あたしは法律ができた後も、ずうっとここで生きてきた。繁華街で小料理屋でも持たないかというタッちゃんの申し出も断った。ここにいて、最後を見届けるんやという執念に生きがいを感じていたからだ。タッちゃんとのとろけるような、相性のいい交わりをし、一方でほかの男たちと商売をする。そのあたりの心根が分からないという人もいたが、タッちゃんとは金の上でなく対等に抱き合いたいという、あたしなりの意地があった。このことは、当のタッちゃんもあたしと同意見だった、タッちゃんの国の人はまず現実のすべてを受け入れて、そこから世渡りを始める。どうも日本人よりきっぱりした男気があるような気がする。法律すれすれ、ときにはアウトローの身過ぎ世過ぎ。やりようによっては殺されたり、餓死したりの生活。同じ祖国の人たちとの連帯がなければ、生きながらえることができなかったのだろう。あたしの家も貧乏だったが、オフミさんの話では、とてもそんなもんではなかったらしい。そういえば、『シーちゃんと身を交わすときだけが、ほんまもんの自分に立ち返れるときや。シーちゃんがおるこの場所が、わしが穏やかになれる場所や』って、タッちゃんが言うとった。あたしが身を置いていたこの✖✖楼が売りに出たとき、『お金さえあれば買いたい』と話したら、『そうしよう。自由気儘に素っ裸でシーちゃんと抱き合うんや』って、現金を鞄に詰めて不動産屋に行ってくれた。『更地にするまで待ってくれ』と言われ、『何言うてるんや、建物込みや』と応えたら、なんぼかまけてくれたと、あんまり冗談をよう言わんタッちゃんがうれしそうに話してくれたわ。初めてふたりだけでここで過ごした夜は、ゆうべのように闇の夜で、その中でもここ✖✖楼の闇の成分はほかとくらべてずいぶんと濃いのじゃないかって思うくらいに真っ暗やった。聞こえてもええって、タッちゃんは窓を開け放しにして、熱い胸と、熱い腹と、熱い吐息と合わせてきた。『ここはわしらが死ぬまで壊さんぞ』って。『全部買おう。橋からこっちはみんなわしらのものにしよう』って。ところが、それが実現したんや。タッちゃんが絶対に手放さんと知った土地開発業者が、ひそかに狙っていたこのあたりの再開発をあきらめたという噂が流れて、売り急ぐ人たちが次々に現れた。ずいぶんな安値で手に入れることができたのだ。噂を流したのは多分タッちゃんやった、と思う。タッちゃんは、何もそこまで、というくらいの徹底振りで買い漁った。『これまでに何千、何万という男と女が交じり合うたこの土地の上で、シーちゃんとわしだけが情を交わす。最高やで』だって。こんなあたしたちののろけ話、もしあの女の子が本当に来てくれるんやったら、してあげようかと思うとる。ゆうべ、寝入ったあとのあの子の息づかいを聴きながら考えたんや。この子にどんなことばをかけてやったらいいのだろうか、って。こんな淫らなあたしたちの話、あの子にはまだ刺激が強すぎるかしら。あら、またタッちゃんからの電話。あっ、そうだ。こっちに来るときに、オフミさんを偲ぶ花を買って来てって、お願いしなくっちゃ〉

〈本作は、同人誌「航跡」に掲載したものを一部修正して掲載しました〉


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