自分は「変だ」と言われてきたが、実際は多分普通なのだと気付けた。

中学から高校、この6年間がとても生きづらく感じていた。もちろん楽しかったこともあったはずなのだが、思い返してもぼんやりしている。
実際は短大を卒業してから25歳くらいまでも生きづらさはそれなりに感じていたが、この生きづらさは中高からの地続きのようなものであったし、中高の閉塞感に比べれば自分で選べるものが増えていた分楽であった気がする。

生きづらくはあっても、特にイジメにあったわけでもなく、ただ人に合わせるのが下手だったというだけだ。流行り物を追うわけでも無く、自分の好きなものだけで完結していた。周りに合わせる努力をしなかった。道化役も中途半端で、多少のからかいをされながら過ごしていた。不快なことも笑顔で流し、「変人」と言われても黙って笑っていた。
私が怒ったところで、相手が泣いて被害者になるのだ。人前で泣くな、それは負けだとしつけられていた私は泣けなかった。今なら些細なことですぐ涙が出てくるのに。
泣いたところで卑怯だと言われるだけだったような気もするが。


私が生きやすく思うようになったのは広く他人と関わるようになってからだ。
短大では他県へ行っていたが、まずそこでの息のしやすさに驚いた。殆どが同世代であるのに、中高のころとこんなにも違うのかと。
好きなバンドのライブへ行くようになり、SNSを利用してさらに交流が広がった。
そこでは私は「変人」では無かった。各々が己の考えを持っていて、他人の世界を頭から否定することはない。そういう人ばかりに出会えたのは、ただ運が良かっただけなのかもしれないが。


そんなことをつらつら思い出すようになったきっかけは、比較的最近のこと。
帽子を脱いだとき髪の毛がぺたんとしていて笑われた、そんな思い出をぽつりと呟いたとき、「笑うほうが悪い」と言ってくれた人がいたのだ。
元々帽子を被るのが好きだった、だがあんまりにも笑わるので似合わないのだと、必要なとき以外はあまり被らなくなっていた。そのことを思い出した。
自分自身、蓋をして忘れてしまっていたらしい。傷付いていたらしいことに今更だが気付けた。
そして、もし今SNSやリアルで関わっている人たちは、私が帽子を脱いでぺたんとした髪を見ても笑わないだろうと思った。気にしないか、気になるようならとアドバイスをくれるかもしれない。
今はそうした優しい人たちとばかり関われて居るのだという事が嬉しくなった。そしてそれと同時に、もっと早く出会いたかったと思った。
彼や彼女たちとの交流があったなら、あの中高の6年間も「そんなもの」とやり過ごせたかもしれない、と。
だが、今だから素直に相手の優しさを感じられるのかもしれない。私自身、今の私とあの頃の私では違う自分であったろうと思う。


だらだらと思ったことを書きなぐると長くなる。改めて読むと周りが悪かったように書いてしまっているが、あくまで私の主観だからだ。
周りは周りで思っていたことがあるだろう。そしてその扱いを良しとしたのは自分の怠惰だ。
変人ではなく、怠惰だっただけ。
そのへんにいる怠惰で、普通な人間。



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