人生をかけて

僕は比較的人に感謝されることが多と思う
こんな自分になんで感謝するのだろう?と疑問に思い、立ち返ってみた。
そしたら
むか〜しから無意識に心に留めていた
言葉があった

他人は自分の鏡

これは小学生の頃に出会った言葉だけど、20年弱生きてきた自分の人生において絶対に揺るがない事実である。そう誓える

この言葉との出会いは、年長さんの頃に放課後公園に集まってサッカーをしていたとき
ボールをゴールへ蹴ることしか遊ぶことを知らない僕は、「ボールを蹴る子」、「ボールを拾う子」に分かれて遊んでいたことも気が付いていなかった
僕がボールを蹴ると友達が拾ってくれた
それが当たり前になっていてボールを拾ってくれる子に感謝をしていなかったことから、
初めて母親に
「ありがとうと言いなさい!!!」
と怒鳴られた
「友達は自分の鏡だよ、友達のことを考えたの?自分が友達(の立場)だったら、どう思うの?」

それから相手を気遣うようになって、さまざまな場所で出会ういろんな人の考えることを意識するようになった

これが「当事者意識」という言葉だということは高校生になって気がついた
高校生の頃、先ほど経験した小学生の頃と同じような体験をした
高校生になってもサッカーを続けていた僕は
チームでボランチをしていて、パスを配給してゴールに直結させるプレーが得意だった
ゴール前ではラストパスをして活躍していたものの、自陣でのパス回しでは
パスの「テキトーさ」が出ていた
このプレーを見た監督が「お前がパスを出す選手が次にプレーしやすいところにパス出せよ!!」と怒鳴った
この時、サッカーに対して当事者意識が欠けていることを理解し、次の次のプレーまでを考えるようになった

「当事者意識」が「自責の心」に言い換えられることに気が付いたのは大学4年生。就職活動を始めた頃だ。
自己分析をする中、当事者意識が強いと思い込んでいた僕は、自己PRの部分に「当事者意識が強い」とそのまま書いた。
これを書いて通ったエントリーシートはひとつもない。
なぜなら当事者意識がどう活かせるか、この強みを持って何が変わるのか、具体的に伝わらなかったからだ
この言い換えを探した時に、「自責の念を抱く」ということに言い換えられることに気がついた
自責とは簡単に言うと、自分のせいにできるか、だ。
自分の過ちを認められるか、行動したことに対して何が悪かったのか考えられるか、更に自分の身の回りで起こったことに対して自分ができた対策はあったのではないか、というところまで派生して考えることが出来ると思う。
サッカーのプレー中に、自分がパスを渡した仲間がボールを盗られたら、自分のせいにできるか。という点も自責の心を持っているかどうかに関わると考える。
半歩先を読んで考えることで対策できることは、日常生活や社会においても活かせる部分は必ずある。
アルバイトで後輩がレジのミスをしてしまったこと、静かな飲食店で友人が大きな声を発して怒られたこと、お爺ちゃんが毎日飲酒し続けて病に見舞われたこと、
半歩先まで考えれば対策できることがあった。
自責の心を持つことで、自分が出会った周囲の行動の一つ一つで成長し続けることができると思う

だから僕は、自分の人生をかけて、自責の心を持ち続ける

単に人の手助けをしたい訳ではない
自分が成長するための場面や機会が、24時間、365日、
自分が生きる全ての時間に転がっているということに気が付いたからだ。

人に流されやすい自分は「自責の心を持ち続ける」ことは揺るがず行動し続けたい

その結果、自分にとって居心地の良い、
人に感謝される環境に身を置きたい

ただの誓いの念だけど
周囲に負けない自責の心を持ち続けて
自分の鏡を増やす人間になるぞ

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