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手紙(創作・コント):1149文字

カムチャツカ朱海あけみ「本日欠席のジブラルタル峻氏から手紙が届いております。進行役の私が代読致します」


ジブラルタル峻です。

このような形での、出席ではない出席をお許しください。

簡単に自己紹介を致します。1979年生まれですから、人生の先輩方からはまだ若造だと、そして後輩の皆さまからはおっさんであるとみなされる、そんな年代でしょうか。

会社員をしつつ、2010年からお笑いユニット「ジブラルタル」にてネタ、脚本を担当。そして2023年末からは「ジブラルタル峻」名義で、現代コントや現代詩を書いています。ひたすら我流を進んでいるような肌感覚もあります。

では本題です。
今回のワークショップの主題「書くことのしくみ、たのしみ、おかしみ」につきまして。

もう既に、議論がされ尽くされたかと思いますが、書くことは歩くことに他なりません。
書くことはペンを動かすことだったり、タイピングをすることなのだから、足を動かして移動することとは違うではないか、というお声が聞こえてきそうですね。確かにその通りです。

しかしどうでしょう。

書くということは、自分の内側の心情世界または再構築世界への潜り込みであるかもしれないし、あるいは外界の動物への迫りだったりするわけです。ですから足の動きを伴わずして、潜行し、そして、近接する。つまり既に歩いていることを意味するのです。

叙情詩派の方ならば心の声を聴くという営みもあるでしょうからそれは音楽鑑賞でもあるし、叙景詩派の方あるいは生物派、環境派、無生物派、そして、越境派、海峡派の方々にとっては、観察であり、フィールドワークの要素が強くなるはずです。

さて、ここでメルロ=ポンティのことばを引用致します。

〈存在〉とは、われわれがそれを経験しようとすれば、われわれに創作することを要求するものなのである。

『見えるものと見えないもの 付・研究ノート』
(M.メルロ=ポンティ/みすず書房/2020年3刷
/哲学と文学 P281)
※太字は傍点

書くことは、程度の差こそあれ創作的であり、何かを写しとる、つまりシャッターをきるということを伴う歩行の変奏です。

……


参加者A「あのー、ジブラルタル峻さんどうしていつも欠席なんですかね?」

参加者B「そうだよ。なんでだよ!」

カムチャツカ朱海「ちょっとそこまでは私も把握してなくて、単に代読しているだけなものですから」

参加者C「ジブラルタル峻さんって実在するんですか? いつもこんな具合で、誰も会ったことないですよね? 本当に存在するんですかねえ?」

参加者D「存在? 別にいようがいまいがいいんじゃないの? それらしき人が好きに書いたものがここにあるのは確かなんだし。それでいいじゃん」

カムチャツカ朱海「…… えー、では、ワークショップ、続けましょうか」

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