2023.8.16

8月16日。母の命日。
自分にとっては気が遠くなるほど長く、そして短い1年だった。

このことを果たして書くべきか逡巡していた。
どう考えたって重たい話になるし、これを読んで不愉快な気持ちになる人もいるかもしれない。
それでも書きたいと思った。
書かなければならないと思った。

母のことを忘れないために。
そして、母が生きた証を残すために。

あの日もこんな暑い日だった。
仕事中にかかってきた父からの電話。
あんなに暑い日だったのに、背中から身体が冷えていくのを感じた。
あんなに五月蠅く鳴いていた蝉の声が遠ざかっていく。
駆けつけた時には、既に母の意識はなかった。
だが「耳は聞こえているので、声掛けてあげてくださいね」という看護師さんの言葉に後々救われることになる。

その後はひたすら手を握って声をかけ続けた。
それから数時間後、母は静かに息を引き取った。
父と他愛もない家族の想い出話に花を咲かせていた頃合いだった。
とても穏やかな最期だった。
病院の先生が死亡確認をしているとき、母の目から一粒の涙が零れ落ちた。
その光景は今でも脳裏に焼き付いている。

人間の感覚で最期まで残るのが聴覚だという。
すなわち、目を閉じて意識がない状態でも、周りの声は聞こえているのだとか。
だからきっと、自分の声は母に届いていたんだと思う。
それだけでも、何だか救われたような気分になった。

思えば4年前にステージ4の乳がんと診断された時点で、いつかこの日が訪れることを頭のどこかでは理解していたはずだった。
だが、それを認めたくない自意識が”その日”が訪れるという事実を拒んでいた。
認めなかった。認めたくなかった。
医療の進歩で何とか助かるんじゃないかという甘い考えを持ち続けていた。なにしろ亡くなる前日も母と電話していたところだったのだから。
まさかそれが最後の会話になるなんて思ってもいなかった。

通夜葬式を終えて、ひと段落した一週間後のこと。
それまであまり感じていなかった実感が、急激に押し寄せてきた。
嗚呼、なるほどこれは遅効性で襲ってくるんだなと。
周囲の輪郭がぼやけて見える。
何だか世界が灰色になったようにその時は思えた。

あの日、確かに自分の中の世界は一度終わった。
大げさなようだが、しかしこれはまぎれもない実感だった。
母のいない世界をどう生きていくべきか分からなくなった。
あれ、自分ってこんなにマザコンだったかなと思うほどには喪失感に打ちのめされていた。

沢山人に助けられた。
今の今まで、自分は割と一人で生きていける方だと自負していたが、真っ赤な嘘だった。
結局のところ、人間というものは究極的には1人では生きていけないのだ。
そうして助けられた結果、何とかどん底は抜け出すことが出来た。
だが、一度生まれてしまった後悔の念はなかなか消えることは無い。
もっと実家に帰れば良かったとか、もっとたくさん電話すれば良かったとか、言い出すとキリがない。
そんなことを考えているうちに、母のことを忘れようとすればするほど、思いは強くなる一方だった。別に忘れる必要が無いのに。
だが当時の自分には母との死別を乗り越えなければいけないというような強迫観念があった。

そんな時、ふとラブライブスーパースター1期第8話「結ばれる想い」のワンシーンが頭をよぎる。
「離れていても、想いは繋がっている」
まさに今のこの状況そのもののような気がして、気づけば涙が込み上げていた。

そうだ、距離が離れていても想いが途切れることは無いんだ。勝手に途切れると思い込んでいたのは自分自身だった。
別に乗り越えなくていい、人は人の想いの中で共に生きていけると言ったのは誰だっただろうか。

そんなこんなで1年が経った訳だが、正直なところ今でも後悔が、思い残したことがないかと言われると嘘になる。
未だに週一回は母親が夢に出る。
夢に出てくる母はいつも心配そうな表情をしている。
母はとにかく心配性な人だったので、残していく不甲斐ない一人息子が心配でたまらないのだろう。
自分のことを心配すれば良いのに、人のことばかり気にかけている人だった。
自分が言うのもなんだが、天国もドン引きするレベルの徳の積み方をしている人なので。

だから心配しないでいいように頑張らんといけんなと思った。
でもあなたの息子はなんやかんやぼちぼち楽しんで生きてるから、心配いらないよとも伝えたい。

母は音大出のピアノの先生だった。
10数年前に教えるのは辞めてしまっていたが、自分が社会人になったら再開しようかなとも話していた。
しかしながら、その願いは叶わなかった。
悔しかった。どうしようもなく悔しかった。

母の弾くピアノが好きだった。
ひたすらに優しい音色を奏でる人だった。
たまたま数年前に録音した母が弾いたショパンの幻想協奏曲が自分にとっての形見となった。

自分も少しピアノを習ってはいたが、小学校で辞めて以来ほとんど弾いてこなかった。
それでも、もう一度ピアノに挑戦することにした。
エゴかもしれないが、母の分まで弾いてみよう、弾きたいと思った。
母の紡いだ音楽を止めたくなかった。
しかし長年のブランクによる壁は高く、なかなか上達しない。
だがそれでも、日々少しずつ成長しているのが実感できる。

いつの日か、新たな夢ができた。
あの幻想協奏曲を母に向けて演奏することだ。
これは並大抵のことじゃないだろう。
だけど言葉にすることで叶う夢もあると信じている

あれから1年、少しは前に進めただろうか。
1歩ずつでも、少しずつ、だが確実に前に進んでいきたい。

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