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CatChu!に学ぶダークサイド

CatChu!がどうしようもなく好き。
彼女達のパフォーマンス、楽曲、歌声全てが好き。
だから語りたい。彼女達が描くダークサイドを。

CatChu!が当初発表された時、彼女たちはきっと天真爛漫のTheアイドル的なユニットになるんだろうなと思っていた。思い込んでいた。例えるならCYaRon!やA・ZU・NAのような。

それは大きな勘違いだった。
我々はまんまと一泡食わされたのだ。
オルタネイトはオルタナティブロックを思わせる重厚なサウンドの楽曲。
影遊びはマイナー進行でどこかラテン調の楽曲。
想像していた曲調とは180度異なっていた。

可愛い小動物かと覗いてみると、中から出てきたのは獰猛な肉食獣だったのだ。
この表現が適切かどうかは少々疑問だが、とにかくそれほどの衝撃を受けたのは間違いない。
しかしこれは嬉しい衝撃だった。
自分にとってCatChu!がここまで心に刺さるのは、この路線だからこそだと今となっては感じている。

『衝撃』とはいったものの、メンバー3人の背景や個性を考えると、なかなかどうして、腑に落ちることに気がつく。

CatChu!は渋谷かのん、平安名すみれ、米女メイの3名で構成されている。
この3人にはある共通点があることに気づく。
それは1度は挫折しかけた夢があるということ。
そしてその夢を抱えて生きてきたということ。
渋谷かのんは歌を。
平安名すみれはショービジネスの世界を。
そして米女メイはスクールアイドルを

だから3人は知っている。夢を追いかけることの辛さを。その痛みと苦しみを。
そんな彼女たちが抱えている影の部分。すなわちダークサイドを描いているのがCatChu!の楽曲だと個人的には思っている。

アニメ本編では恐らく直接的に描かれることはないであろう彼女達の抱える心の影。
ある意味ではユニットの楽曲・パフォーマンスもラブライブスーパースターの物語の一部と言えるだろう。

光あるところに影あり。
光だけの人間なんて存在しない。

決して光が善であり、影が悪なのではなく、どちらも偽りのない自分自身。その影を受け入れてこそ、本当の自分を見つけられることをCatChu!は表現しているのだろう。
影はもがき苦しみ努力してきた証。
それを否定することは努力した自分自身を裏切ることになる可能性もある。

影があってこそ、光は一層輝く事が出来るのかもしれない。

CatChu!の3人でとても印象的なシーンがある。
TVアニメ2期9話『勝利のために』のかのんとすみれが対峙する場面。

あそこでかのんがあれほどまで怒りを顕にしたのは、すみれへの信頼の証に他ならないと思う。
信頼しているからこその怒り、そして失望。
あの名刺から始まった2人の関係性は、そう簡単に壊れるものじゃない。

その後これまで通りの9人でラブライブに出る、という流れになった1年生の中で、ただ1人疑問を呈したのもメイだった。

「ほんとうにこれで良いのか?」と。

夢に向かって進むことの辛さを、そしてすみれの、2年生のこれまでの努力の過程を知りすぎているからこその疑問、そして言葉。
綺麗事だけでは勝利は掴めない。みんな仲良しこよしで手を繋いでゴール出来れば1番いい。だが現実はそうでは無い。実力が全てのこの世界において、努力はあくまで過程であり、結果こそが最終的に評価される。
それを理解しているからこそ、メイは5人で出て欲しいとすみれに伝えた。
だが、悪者になりきれない優しすぎるすみれは肯定できない。
「あんたたちがどれだけ努力したと思ってるのよ、、」と。
努力することの辛さ、報われない虚しさを誰よりも理解しているすみれはヒールに徹することが出来なかったんだろう。

結果論になってしまうけれど、この3人は成るべくしてCatChu!になったんだと思う。
CatChu!は、そしてCatChu!の楽曲は彼女達の生き様そのものなのだろう。

そして今回の1stシングルの表題曲でもある『ディストーション』
おや、CatChu!もこういう可愛い系の曲を出すんだなと意外に感じたのを覚えている。
正直に言うと、あまりCatChu!っぽくないなとまで思ってしまった。(もちろん可愛い系の曲も大好物だけど。)
それはもちろん、CatChu!の路線はダークなロック系だと思っていたからだ。
ところがどっこい、ポップでキャッチーなメロディラインに気を取られがちだが、よくよく歌詞に耳を澄ますととんでもない内容を歌ってることに気がつく。
いや可愛い声でなんちゅうえぐい内容歌っとんねん!!
この曲も例外なくCatChu!そのものなんだと思い知らされる。

今更の解釈だが、この曲は『ない』もの、つまり持たざる者がテーマとなっている。
1番では"何も『ない』"僕を嘆きながらも、それすらも自分自身と受け入れて力に変えていく。
2番では何者にも"なれ『ない』"自分を未来がないと嘆きながら、それでも、それすらも『遊び』に昇華していく。
そしてラスサビでは『「ないない」が僕だ。』と『ない』自分自身と向き合い、そして受け入れている。

これはもうCatChu!の真髄そのものだと言わざるを得ない。
何も無い、何者にもなれない(と思い込んでいる)弱い自分を曝け出しながら、それを拒絶するのではなく受け入れ、さらに自分の力に昇華していく。
ダークサイドすらも乗りこなしていく。
自分次第で何にだってなれるに違いないってことをその姿で、その背中で僕らに示す彼女たち。

こんなのあまりにも格好良すぎるじゃないか。
この曲に鼓舞された人はきっと多いんじゃないだろうか。いやそうに違いない。だって自分もその中の一人なのだから。

『何者かになりたい』というのは、万人が抱える悩みであり、そして願いなんだと思う。
そしてその悩みを掬いあげるように、そしてあなたらしくて良いんだよ、とCatChu!からの応援メッセージをディストーションから受け取ることが出来た。

今回の1stシングルを経て、CatChu!に対する解像度がさらに高まり、それに付随してCatChu!への想いは膨らんでいく一方だった。

そして迎えたCatChu!ファンミ
正直に言うと、ただただ圧倒された。ぶん殴られた。魅せられた。
前半のトークパートが全部ぶっ飛ぶくらいの衝撃だった。

コンテンツの性質上、そしてキャストさんのたゆまぬ努力の賜物もあり、ラブライブのライブはキャストとキャラのシンクロの素晴らしさがよく話に挙がるが、CatChu!のそれは特に異質だと今回のライブで改めて感じた。

大袈裟な表現になってしまうが、キャストとキャラの境界線が曖昧になるというか、輪郭がぼやけていくような感覚に陥ったのだ。
頭では目の前のステージに立っているのはキャストさんだと分かっていても、まるでそこにいるのがキャラ自身であるかのように。

それはもうあまりにもCatChu!だった。
ステージに立っているのは渋谷かのんでもあり、伊達さゆりさんでもある。
平安名すみれでもあり、ペイトン尚未さんでもある。
米女メイでもあり、薮島朱音さんでもある。

『息切れさえもCatChu!のパフォーマンスの一部』
ペイトン尚未さんのその言葉がCatChu!の魅力を全て物語っていた。

CatChu!が描く物語を、そしてダークサイドをこれからも追いかけていきたいです。

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