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呪いと共に生きる決意を新たにした夜の話

「乗って!」
目の前に現れた水色の軽。運転席の友人に、半ば強制的に連れ去られた。私が出発する三日前。時刻は午後9時、BGMはシューマン。

車は夜道を走る。確信を持って、東から西へ。どこへ向かっているのか彼女は言わなかったけれど、私は随分初めの内にもうわかってしまった。私も何も言わなかった。二人で今日この時にその場所に行くことが、ごく当然のことに思えたから。そして私が気付いていることに、彼女も気付いていたはずだ。
道中話すことといえば、流れてくるシューマンとこれから向かう場所にまつわる、この世界のこと。おかしなことに、まだ二人ともこの世界の住人のままなのだ。

途中、スターバックスのドライブスルーでコーヒーを買った。午後10時、まだ賑やかな街。別の世界にいるみたいな、また、まだ肌寒い空気と、この街にも存在する、いわゆる世間というものから守られたように、この車の中に閉じ込められたみたいな私たち。シューマン、コーヒー、二人が共有する思い出と共に。

雨。雨だ。私たちは雨からも守られているけれど、車体にぶつかる雨の音は、内側の濃ゆい空気を一層際立たせていた。否応無く、ショパンの「雨だれ」を思い出す。過去の亡霊に苛まれる二人に、なんとぴったりなんだろう。

雨、ますます強くなる。車は止まった。ヘッドライトに照らされ浮かび上がる、白く無機質な建物。街の外れの国道のすぐそば、世界から隔離された空間。

病棟のようだと思った。精神を病んだ人間のための、隔離された建物。

二人だけの、こちらも隔離された空間の中、過去の亡霊をやっと締め出しながら、私たちはしばらく何も言わずに、何も言えずに、目の前の建物を眺めていた。憎しみ、懐かしさ、愛着、呆れ、諦め。それらが混じり合って、私の心を占拠していた。それからきっと、彼女の心も。

「ここから全て始まったな」
「うん。ここが全ての元凶。人生を狂わされた場所」

お互いに苦笑して、つまり苦笑するほかなかったが、ぽつりぽつりと思いを言葉にしていく。核心には触れぬまま、見ぬままに。

二人とも、目の前の建物から目が離せなかった。そこは確かに私たちが時を過ごした場所。社会から切り離され、独特の閉じたコミュニティに囲われながら、こんなところにいたくないと思いながら、それでも居心地よく居続けた矛盾と、その矛盾から生じる負の感情とを、我々の心に植え付けた場所。ここは私たちが、一生抱え続ける呪いを受けた場所。

我々は特別だった。

「逃げたと思った。逃げられへんかった」
「一生無理やん、そんなん。一生、呪われたまま過ごすしかない」
「この世界があんなに嫌やと思っていたのに。結局真人間にもなれる気配ないし」
「そりゃあ、マグルには戻れません」
私たちは引きつった笑い声を立てた。

 しばらくそこにいた。もうあの頃のようには使われなくなった学舎に、あの頃の自分たちの面影を見た。我々の一部はまだここにいるのだ。思い出は亡霊のように浮かび上がってくる。馬鹿を言って笑いあった楽しい時も、悔しさに、自分の不甲斐なさに涙した時も、一人屋上に佇んで、ひたすら自問自答を繰り返した時も…私はどうやって生きていくのが良いのだろうか?というようなことを。

 あれから彼女はずっと呪いと真摯に向き合ってきた。私は逃げようとした。どうしてずっと続けられるの?と、すっかり逃げたつもりでいた私は、いつか彼女に聞いたことがある。彼女はただ、他にできることがないんだと答えた。
私はその答えに納得しなかった。努力次第でいつだって外に出ることができると、実際に自分がそうできたと思い込んでいたから。それでこう思うようになった:彼女には才能がある。彼女には情熱がある、自分のすることを愛しているのだ、愛して選んでいるのだと。

私には自信がなかった。そんな自覚の芽生えるうんと前から、考えすぎだの、潔癖だの何だのと言われ続けていたのだから、自分がそういう人間なのだと決めてかかっていたし、きっとそういう風をわざと気取ることすらしていただろう。そうすることで自分を才能のなさと向き合うことから守っていた。いや、才能がないのだという誰かの意見を、その理由を、自分なりに噛み砕いて納得しようとしていた。私は己を曝け出すような恥ずかしいことを喜んでするようなお馬鹿さんではない。そう思っていた。

でも違った。あの頃、考えすぎる性質が良い方に発展することなど、誰も教えてくれなかった。まるで間違ったことのように言われていたのだ、もっと馬鹿になれと。だからまさか、私にしかできないことがありうるだなんて、また私より何倍も頭で考える人がいるだなんてことも知らなかった。

世界は広かった。あの狭い世界の中だけでも、あの頃閉じ込められていたより他に、もっと大きな世界があった。

 時折、いやほとんど毎日、あのまま彼女のように真摯に向き合っていたらどうなっていたのだろうか、と考えることがある。どこかで今の私のように、まるでラジオの周波数があったみたいに、ピンとくる瞬間を迎えていただろうか。辛いまま邁進し、辛いがために進めなくなり、不貞腐れて心を病み、にっちもさっちも行かなくなっていたのだろうか。彼女は言った、いや、あなたは外に出て正解だった。あのまま続けていたら絶対に挫折していたと思う、と。だから私も信じることにする。あの時外に出る決断をして、その外側にも世界が広がっていることを知った上で、呪いと共生していける可能性を見た上で、こうして戻ってこようという意欲を持てたのだ。


「そろそろ行こか」
彼女が呟いた。
「うん。連れてきてくれてありがとう」
「ううん、今日一緒にここにくるべきと思ったから」
「憎らしいな、ここは」
「うん。憎らしい。それでも、全てが始まった場所ねんな」
「ここにきてへんかったら、こんな決断することもなかったしなあ」
「そうやん。無事に呪われたまま、お互い生きて行くしかないねんて」
「あ、私も仲間やったわけか」
「今更何をおっしゃいますやら!」

すっかり夢から覚めたような心地だった。自分のことは見えにくいだけで、やっぱりそちら側の人から見れば一目瞭然だったみたいだ。私も、とうとう逃げ切れることなく、呪いと向き合ってこのまま人生を送っていくことになるのだということ。足を踏み入れた以上、抜けることは一生できないのだから。

彼女がエンジンを入れた。私の体の血流が感じられて、本当に目が覚めた時みたいに、現実に戻ってきた感覚があった。
さてここから。ここからだ。この場所で過ごした時間は、決して流れから切り離されたものではなく、置き去りにされたものでもなく、見えにくい形で、あるいは実は非常にわかりやすい形で、今に、そしてこれからに繋がっていたのだろう。なんと精巧に仕組まれていたことか。

 あの頃、まだうんと子供だった私がおぼろげながらに抱えていた情熱は、雪玉が斜面を転がるように、これまでの経験で大きく肉付けされて今の私の情熱になった。別物ではない。あれを土台に成長したのであって、その核になる部分には、あの頃の幼い私が、幼いままに受けた人生を変えた感動が、ちゃんと存在している。

よかったね。あなたは見つける。あなたは報われるよ。悔しくて、どうにもできなくて泣いていた自分に、そう声をかけたい。大丈夫、そのまま、心の向くまま、前に進んで。十年後の私は大いに幸せだから。世界は広いんだよ。


 我々の車は帰り道から逸れて、小高い丘の上にやってきた。素晴らしい夜景だ、街の灯りがずっと広がっている。彼女は、いつかここに一人で来ては泣いていたと言った。私も、重い気分を引きずりながら何度もここを通り過ぎた。

私は確かめる。この街で、私は生まれて、この街で、私は呪われた。どこに行こうが、そうだ、どこへ逃げようが、その事実を否定することはできない。

苦しかった。辛かった。挫けかけた。それでも私にとって最上の幸せを与えるものに出会った私の原点、それがここにあるのだから。いつだってずっと繋がっているのだ。

「また二年後一緒にここ来よな」
彼女が言った。
「うん。絶対」
私が答えた。

帰り道に来ては泣いていた、としか言わなかったけれど、ここは彼女にとっても確認の場所なのだろう。過去の自分の亡霊に出会う場所の一つで。

「まあちょっとここは、エロ目的のカップルも来るから気まずいけど」

彼女が鼻を鳴らした。国道の脇の、夜景の綺麗な人気のない場所。私は、我々の車内とその他の車内とのテンションの落差に、なんだか馬鹿らしくなって笑った。


 音楽と向き合うこと。音楽の中に自分を見つけること。共に生きるための選択をすること。情熱と、はたまた意地とで、そうして生き続けること。音楽を選ぶということ、他の世界から遮断されるということ。それしかできない体にされるということ。これが呪いでなくて何というのだろう。が、幸いにも私は、その呪いを快いものであるとの認識を得られるようになった。もちろん今のところは、だ。
今後更なる選択を迫られることもあるだろう、もう嫌だと思うかもしれない。それでも今は進むしかない。重荷を背負ったまま、懸命にもがこうではないか。未来は自ずと開けると信じて。だって全て経験は繋がっている。

そして今心から、音楽が好きだと思えることを幸せに思う。私は音楽が好きで、音楽と一緒に生きて行きたい。それはとてもシンプルな願い。

***

二年ほど前の思い出。車内BGMのシューマンが何だったか覚えてないし、絶対にショパンではなかったけれど、あの頃を思い出すときは必ずバラ1がセットで思い起こされてどよーんとした気持ちになる。昔BSでやってた「私を救ったショパンのバラード」というイギリスのドキュメンタリー、とてもよかった。

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