あれから4年

 2016年7月26日から4年が経ちます。僕は変わらず、病院や施設での勤務を続けています。事件の直接的なことについては、様々なところで議論され、記事にもなっていたりして、それらを読んだり読まなかったりしています。4年前、事件直後の報道はほとんどみられませんでしたが、だいぶ読むようになりました。僕が非常勤で勤務していた時に最もかかわりのあった看護師さんとは、本当に時々ですが連絡を取って、園のことやそれ以外のことを聞いたり話したりしています。

毎年、この日に思うことを、まとまりきらないままこの場所に書いています。


 常に頻回に考えるのは、日々生活していて、何事かに対する差別の気持ちが少しもないという人がいるのだろうかということです。それが大きく意識にのぼってくるか否かは程度の差があるとしても、何事かに対する差別の気持ち、根拠がはっきりしない嫌悪感のようなものは、「ない」とは言えないのではないでしょうか。小さなことでも、自分の中にそれを見つける時、できるかどうかは別として、その気持ちをそのままにしておきたくないと考え、どうしたら良いのだろうかと悩みます。

 人に対して好意の逆の気持ちが生じる時、その人のことを実はよく分かっていないことが多いような気がします。よく分かっていないのに、「あの人は〜〜な人だ」と、分かったことにするから、分断するような考えが生じるのではないでしょうか。そもそも人はみな違うので、その人のことを分かり切れるということはほぼ不可能なはずなのに、自分の中で違和感を感じることがあった時、「ああいう人」は嫌、とか、いらない、と止まってしまうのは怖いことです。その人をなるべく細かく分かろうとすることが大切なことだと思います。

 その人が、その時点に至るまでには必ず物語があって、その物語には個人的な歴史、家族的な歴史、民族的な歴史など様々な側面があります。個人の努力ではどうにもならないこともたくさんあって、それらの様々な違いに思いを馳せることを忘れないようにしたいです。必ず、違いはあります。でも、その違う両者は、どちらが良いでも悪いでもないはずです。何かの側面で人より得意な人は、得意ではない人をその側面で支える、そうすると、予想もしていなかった側面で、支える・支えられるが逆転することもあるのだと思います。そのような形で色々なことが成り立ってほしいです。


 ところで、僕はどの勤務先でも精神科の医師として仕事をしています。先ほど書いたように、診療で会う人のことをできるだけ分かりたいと思って日々臨んでいます。それなのに、やればやるほど、医師という立場が持つ圧について考えさせられます。病院で診療したり、訪問診療をしたりしますが、その時に会う人にとって、僕は、僕であると同時に、というかその前に、精神科の医師です。患者として精神科医と向き合う人が感じる、精神科医という立場が内包している圧迫感。それは、これまでの精神科医療の歴史や今もなお残る強制的な部分、精神科病院や施設という場所が持つ収容所性の恐怖感も紐づいているのだと思います。それらの側面が自分にありながら、どうしたら人として信頼してもらえるのか、ということに日々悩んでいます。ある関係性において、まずはどうしても強者のような雰囲気が生じてしまう場合、十分にそこに気を配る必要があるように思うのです。

 僕が心に留めている言葉があります。それは、今年上映された想田和弘監督の映画『精神0』でも焦点が当てられた精神科医、山本昌知先生が提唱された「負ける精神医療」というものです。

『患者本人に対して我々医療者は勝ち過ぎてきた、我々の価値観、要求、専門的な考え方も全て押しつけて勝ちに勝ってやってきた、でも、勝とうという人ばかりに囲まれていたら、我々が関わる当事者は伸び切らないのではないか、「負けてくれる可能性がある」という状況の中で、初めて安心や安全感が増して元気も出てくるのではないか』(山本先生の2010年の論文、岡山の精神保健医療はどう変化してきたか これまでとこれから.より)

という考え方が「負ける精神医療」です。

また、『精神0』では山本先生が、長くかかわってきた患者さんに対して、「色々なことを教えてもらった。豊かな気持ちにさせてもらった。ありがとう」(言葉の詳細を記憶・記録していないので意訳です)という内容を言う場面があります。ある側面では支え、他の側面では支えられているというのはこのようなことではないでしょうか。これはまさに、山本先生がテーマにされてきた「共生」ということだと思います。このような関係を目指して、日々人間関係を築いていきたいです。


 「生産性がない」という発言や、その雰囲気のある様々な言動に触れるたびに、何をもってそんなに言い切れるのかとモヤモヤをはるかに超える怒りを覚えます。でも、その発言の主にも、それを発言するに至る物語がきっとあるのだとも思いはします。

 モヤモヤ、怒り、冷静さなどを行き来するうちに、だいぶ夜になってしまいました。全然まとまりませんが、色々なことを決めつけることなく、少なくとも考え続けていきたいと思っています。

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