あれから5年

 毎年この日、考えていることを書き留めるようにしています。今日は外来の日でした。僕の勤務先では、外来は午前午後の通しなので、朝から夜まで話をし続けることになります。今日もたくさんの人にたくさんのことを教えてもらいました。毎週来る人、隔週の人、毎月の人など、通院頻度は人それぞれですが、みなさん、本当に色々な体験があったり、色々なことを考えたりしているのだなぁと日々感じます。
 週に一日半は訪問診療に行きます。何かしらの理由で通院することが難しいから訪問してお話しにいくわけですが、行動範囲がとても限られていたとしても、毎回の訪問で、色々なことを知ります。

 例えば……、なんて書き始めたら、書ききれないくらいの、膨大な小さな物語。でも、何年も診療でお付き合いが続いていても、目の前の人のことで僕が把握しているのはほんの一部だなぁというのは変わりません。この人はこんな人なんだろうなぁ、という自分のイメージが覆されることが何度もあります。それは新たな情報であることもあれば、その人が日常生活の中で気づいた、生きにくさが少しだけ減るコツだったりもします。そんなコツを発見したということを教えてもらう時は驚くし、なるほどその考え方は参考になるな、と自分の日常生活に生かしてみたりもします。
 逆に、これまで語ることのなかった辛いことをついに語ってくれる人もいます。先日も、毎週訪問して一年以上経つ人が突然、辛い体験を日々していることを教えてくれました。聞いてすぐに言葉が出なかった僕は、あまりに読み切れていなかった自分に落ち込んだのか、すぐに明快な助けの案を出せない自分に呆れていたのか、今となっては分かりません。その人はどうして一年以上も経ってから話をしてくれたのでしょうか。話をしても良い相手として信頼してもらうのにそれだけの期間がかかったのかもしれないし、言葉になるのにそれくらいかかることだったのかもしれません。具体的なことを書けないので、読んでいてもなんのこっちゃという感じかもしれませんが、それぞれの人には、言葉や思いにすらなる前の曖昧なもやもやのようなものがきっと無限にあるのです。だから、人のことは絶対に分かり切ることはないし、細かく、長く時間を紡ぐほどに、とても少しずつだけど新たなことを知り、目に見えないくらいのそれが重なって、関係は豊かになっていくのではないかと思います。


 想像力の及ばなさ、に直面することが、自分の中にも、社会の中にも多くあります。想像力が及ばないと、分かり切ったと思って決めつけてしまったり、短絡的な言動に至ってしまったりする気がします。それが誰かに対する暴力になれば、それを受けた人の自分を守るための想像力が機能しなくなり、深い悲しみや自責に苛まれてしまうかもしれません。

 医療、福祉、いや、人間の生活において、一様にこうしたら良い、という「正解」は多分ありません。それぞれの事情を地道に、省略せずに考えていくしかないのだと思います。ここで何かを提言したいわけではないというか、提言したくてもできませんが、ここのところも相変わらずそんなことを考えています。

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