江戸和竿の経験 シーズン2 その17
NHKで金城次郎を特集した番組の再放送(「次郎さんの魚が笑っている」初回放送は1987年11月)を観た。
金城次郎は沖縄初の人間国宝の陶工である。魚やエビなどの海の生き物の絵が豪快に描かれている皿や茶碗がネット上にも多く流通している。
金城次郎による焼物には素朴さ、無骨さ、日常使いできるあたたかみがある。江戸和竿同様、私は家でいくつかの金城一門の陶器を「使って」いる。味噌汁を飲んだり、カフェオレを入れたり、インスタントラーメンを食べたりしているのだ。飾り物にはしていない。子供たちも勝手に使っている。
改めて民芸品としての金城次郎あるいは金城一族の作品を見てみよう。
魚紋といわれる魚やエビを描いた一連の作品がある。何か具体的なブダイなどの魚ではなく、金城次郎の中での「さかな」のイメージで、何かの象徴として自由に描いている。あえていうと沖縄あるいは琉球っぽい魚の理想の姿であるといえるかもしれない。
NHKを観て私が注目したのは、金城次郎が多くを語らないこと、自分たちの作品を流れ作業で、日常使いのための道具として作っていること、の2点である。
金城次郎を語る上で「戦争」は欠くことができない要素であるのは間違いない。彼は若い弟をふたり亡くし(正確には亡骸は見つかっていない)、また沖縄は米国からの侵入を受けて読谷村では集団自決があった。読谷村は島の約半分をアメリカの基地として使われていた(番組放送1987年当時。2024年現在は6割が村に返還されている。しかし4割は米軍に使われているという重い事実がある)。
彼は自分ができる範囲で真面目に仕事をしているだけだ、と思った。売れるから魚の絵を描いているのではない。人気があるからでもない。いつ頃から彼の魚が笑い始めたのかはわからない。映像を見る限り、時間を掛けずそのときのインスピレーションで描いている(というか削っている)ように見えた。
人間国宝になる前から彼の作品はおそらく素晴らしかった。いつ頃から彼が「次」という「銘」を入れ始めたのかわからない。自身の作品が「投機的な」価値を持ち始めてしまったからだろうか、流通業者からの要請があったのか。あるいは彼の息子や兄弟による作品と区別するためだろうか。柳宗悦的にいわせてもらえば「銘」や「桐箱」や「鑑定書」の存在はユーザーの目を眩ませるのに充分である。
絵のタッチだけをみても次郎と息子や孫たちによるものと比べると全然違う。違っていて然るべきである。私の場合、陶器としての形をみて「使いやすそうか」を購入の基準にしている。絵よりは形状を先にみる。しかし全体として自分の生活に馴染みそうかどうかが一番だろうか。
沖縄では人が亡くなると厨子甕という陶器に入れて3年後に骨を洗う習慣があったそうだ。それを「洗骨」という。その厨子甕は人が入るだけにとても大きい。いまは人が亡くなると焼いてしまうのでそのような大型サイズの陶器の需要がなくなり作らなくなった。江戸和竿同様にコンパクトなものに趣向や用途がシフトしているようだ。厨子甕の趨勢は江戸和竿のアオギス竿が廃れたのと似る。環境が変われば需要も減り、制作するノウハウも失われる。
江戸和竿の世界も所謂「名人」といわれる竿師の作品には贋作が存在する。あるいは本物っぽく見せるための「工夫」「細工」をして売られているものがある。もちろん名人の作品であっても「力強さに欠ける」ものがある。名人の仕事すべてが時代を通じて超一流であったわけではない。だから「贋作」の中にも、名人の脂ののっていない時期の作品よりも良いものがある可能性はある。だから流通させて利益を得る目的の人たち以外は、これは気に入った、という自分の個人的なインスピレーションを得て入手して使ってみることを勧めたい。私が所有する竿忠、竿治、竿辰、汀石の江戸和竿を誰か鑑定士がいたとして、ひととおり眺めた後で「これは贋作ですね」といったところで私は何とも思わないだろう。
映像の中の金城次郎の仕事ぶりを見ると多くを語らず粛々と自分の出来る範囲の仕事をしている。テクノロジーで世界を変えてやるぜという青い発想はない。琉球、沖縄の伝統を守り、自分の手の届くところでずっと仕事を続けてきたのだ。そこにはいずれにしても平和への思いがあったのではないか。
私は手仕事をしているわけではないが、職業人としては彼を大いに尊敬し見習いたいと思う。
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