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江戸和竿の経験

イントロダクション
なぜ江戸和竿あるいは竹という天然素材を使った竿に興味を持ったのか。おそらく柳宗悦の影響により工芸品や民芸品の魅力に気づいて情報を収集し始めたことがきっかけである。SDGsについて無視することができない世界となり、マスプロダクション、資本主義の世の中、「ほしいものはすぐ届く」という価値観に疑問を持ち始めていることも関係があるだろう。
私は30年くらいルアーとフライ釣りを趣味としてきた。主な対象魚はブラックバスであり、シーバスであった。私にとっては他の魚はブラックバスやシーバスにとってのベイト(餌)でしかなかった。ルアー釣りは趣味の少なかった私に貴重な交友関係をもたらし、喜びを与えてくれた。小学生の時に釣具屋のガラスケースに鎮座していたアメリカのヘドン社のヘンテコなプラスチックルアーでブラックバスが釣れるのはまったくもって衝撃的だった。シーバスは大学に入ってから先輩に誘われて始めて以降、そのときどき住んでいた街の近くに川がありそこでシーバスの遡上が確認できた場合は熱中していた。もし今後どこか海に近い河川近くに引っ越すような場合は、また凝り始める可能性はある。サーフの釣りも好きだ。しかし、いまはルアーにもフライにも距離を置いている。
さて江戸和竿、あるいはグラス素材、カーボン素材が登場する前の「竹を材料」とする和竿を使用する釣りについては単なる懐古趣味ではないかという意見も有ろうかと思う。あるいはやせ我慢の釣りではないかと。グラスはともかくとして、カーボンと竹を比較した場合、重量が全く違う。とくに長尺の竿になると竹の場合、重すぎて釣りのパフォーマンスに直結してしまう。「快適」の意味にもよるが、「疲労」という点ではどうしてもカーボンに軍配があがる。また竿完成までの時間という点においても、和竿は同時にたくさん仕上げることができない。カーボン竿にも技術者がおり、職人芸を発揮する余地はあるのかもしれないが、工場で作るために、大量仕入れ、大量生産であり、資本の力がものをいう。資本の論理で戦う場合、長尺の和竿を作る江戸和竿師は苦しい戦いを強いられる。しかし、それ以前に竿師という職業は安定した収入が見通せないかもしれないことから、ほとんどの現役の竿師は弟子を持たなかった。従って、「江戸和竿の伝統は途絶える」という論理もあるだろう。
しかし「釣りに何を求めるか」ということと、地球環境がこのままでは大変なことになってしまうという全世界的な危機意識という文脈で考えると、余計なことかもしれないが江戸和竿や天然素材を用いた竿師という仕事が生き残る道がある気はする。
ネット上でわかりやすく要約された、あるいは単にコピペされた情報をみて違和感があったり、ソースの提供者は江戸和竿の良さや優れている点をおそらく私ほどは理解していない、または実際の江戸和竿ユーザーではないと感じ、幸い私自身が東京に住んでいることから、江戸和竿を販売しているお店に出向き、ごく数人だが竿師と会話させていただき認識を新たにしたこと、江戸和竿を使っての日常の釣りの経験、中でも江戸和竿そのものが持つ魅力について、江戸和竿に少しでも興味を持つ諸兄に共有することは多少なりとも意義があると考えたのである。


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