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江戸和竿の経験 その7

工芸品としての江戸和竿
江戸和竿の経験というタイトルなので、読者の中には「この人はいつ江戸和竿を作り始めるのだろうか」と期待されている人もいるかもしれない。これまで紹介してきた文献にも確かに和竿の作り方は紹介されているので、どういう工程を経て和竿が完成するのかについてはまったくの無知ではない。しかしたいへん申し訳ないが、いまのところ自分で竿を作ってみる予定はなく、ご期待には応えられない。竿作りに興味がある人は、より詳しい専門書をあたってほしい。
さて、このテーマでの冒頭に紹介した柳宗悦の話しに戻ろう。「南無阿弥陀仏(1986年岩波書店)」などいくつかの作品を読んでいたものの、彼の民芸方面の運動についてはまったく知らなかった。しかし、NHKの日曜美術館か何かの番組を観て興味が湧き、「手仕事の日本(1985岩波書店)」を読むことになった。書かれた時期は戦時であり、リリースされたのは戦後まもなくである。もともと若い世代に広く読んでもらうために、とても平易な言葉で記述されている。日本全国の民芸品を紹介しているが、その第2章において、「同じ川口では釣竿を作ります。おそらく仕事が栄えている点では日本一ではないでしょうか。そのあるものは念入りの作で、日本の手技に最も適した品ともいえるでしょう。もとより竹細工であります。(柳宗悦「手仕事の日本」1985岩波書店)」とある。1940年前後の日本の手仕事の現状を観察、解説した内容である。
駒場東大駅付近に日本民藝館があり、柳の収集品の一部を観ることができる。彼の思想の対象は、個人よりも民衆である。「名前のない人たち」の仕事に伝統のすばらしさと創造性をみて、敬意と愛情のまなざしを注いでいることがわかる。その点は前掲「手仕事の日本」においても述べられている。伝達される伝統や技術に焦点を当てているので、個々の竿師の名前は出てこない。東京ではなく、埼玉県川口の和竿がクローズアップされている点はどう理解すればよいのだろうか。東作竿を始めとする和竿生産者が川口をベースにしていたので、当時かなり仕事が捗っていたということではないだろうか。
民藝館を訪問し、すっかり影響を受けてしまった私は、日常の釣りでも、美しく、同時に優れた機能を発揮する釣竿を使いたいと思った。日常的に使うものが芸術品なのだ。例えていうと、お気に入りのちょっと芸術度の高い漆塗のお椀を平時の食事に使うことに似ている。だから高級竿だからとっておきの時にしか使わないという感じではなく、釣りをする場合、いつでもどこでも江戸和竿である。雨が降っている日は釣りに行かない。釣場で合った老人に「こんなところで和竿を使うなんてもったいないじゃないか」といわれたことがある。では和竿をいつ使えばいいのか?
江戸和竿の終焉は近いのか
私はいかにもルアー釣りをしていそうな顔をしているのか。あるいは和竿を手にするだけの渋さ、人間的深みを持っていないのだろうか。これまで和竿を扱うようなお店を訪問すると、店主より「ルアーは置いてないよ」といわれることが何度かあった。彼らは私が欲しがるような釣具は自身の店にはある訳がないと決めつけていたのだ。そうなると私は意地でも何か買ってやろうと、何十年か前製造の聞いたことがないブランドの古い糸や、ウキを購入したものだ。少し仲良くなった頃和竿の現状を聞くと、竿師たちからは一様に「和竿はカーボンには敵わない、特に長尺の竿はもう駄目だ」という反応が返ってきた。
竿師の声に耳を澄ますと、江戸和竿の伝統の存続には総じてとても悲観的であることに気づく。それは推測するに一人前の竿師になるためには生半可ではない修練と時間が必要であり、自身もそれを経験してきたが故に、もう無理だ、間に合わないと言い切れるのだろう。また現役の竿師たちが高齢化していくので、メンテナンスも難しくなり、いずれ滅びゆくと予言しているのだ。またはそもそも長尺の注文が入らないし、作っても売れないので、竿師サイドでも長尺の竿を作成する技術力が上がらない、ということがいいたいのだろうか。竿師と釣師のインタラクション(交流)があって、竿師は釣師からのフィードバックによって、反省をし、改善点を加えて、より良いものを作っていくというプロセスが機能するのではないか。そうなると釣師からのアプローチがないと、江戸和竿の世界は自己満足の世界に陥る可能性があるといえないだろうか。
もしかするとより格の有る竿師だけにそれだけ「秘術」があり、また求めるレベルが高く、少しがんばれば「それっぽいもの」は作れるようになるだろうが、本格的なものはまず無理だろうということなのかもしれない。
初代竿忠は2代目には教えず、孫の3代目には特殊な技術を教えるということがあったらしい。「倅に厳しい初代は、孫(三代)には目が無かった。三代目が、竿作りのまねごとをするようになると、いろいろな技術を教えた。二代目に教えていない制作上の技術、口伝と称されるものまで、授けた」(土師清二「魚つり三十年」1957年靑蛙房)それをいうなら、4代目の竿忠は竿作りについて3代目竿忠からは全く何も習っていない。4代目竿忠は長男ではなかったからである。
それぞれの家系のスタイルは一旦失われるかもしれないが、もっと手前の基本的竿づくりの哲学や作法を何とか守り、あとは未来の天才を待てばいいのではないか。優れた作品が残っていれば、どうやってこのように仕上げることができたのだろうかと未来の人材が研究するに違いないからである。
江戸和竿のメンテナンス
高名な竿師がメンテナンス、特に「火入れ」についてどう語っているか見てみよう。なぜ「火入れ」について触れるのかというと竿にはどうしても「曲がり」が出るからである。
まずは3代目竿辰から。「使った竿は帰宅後、風干しをしてから胴中の油拭きをするのは当たり前。シーズン終了後には和竿師に手渡して、釣り曲がりの火入れなど定期的な手入れを行っていれば20年、30年はヘッチャラです。一生大事に使い込むことだったできます」(葛島一美「平成の竹竿職人」2002年つり人社)
次に汀石。「几帳面な釣師は、毎年シーズンが終わると同時に竿師に頼んで火入れをしクセを直してから竿を仕舞込んでいます。(中略)問題は、クセの方ですが、実際には火入れをしても、残念ながらクセはまた出てきます。竿が出来上がってからは、釣竿作りの工程の最初の火入れのような、竹の素性を入れ替えるほどの強い火入れはもう出来ません。(中略)しかし元々硬さが足りないで曲がったものや、竹がコナレて出てきたクセは、もう何度火入れをしても直りません。(中略)釣師は大抵竿のクセには神経質なものですが、中には左程気にしないで、火入れをしないでクセのついたまま平気で仕舞い込む人もいます。しかし、それだからといって竿が早く痛むということはありません。二年に一度、三年に一度火入れをするだけでもよいのです。火入れ、いや、矯めの効果を過大視しては困ります。(島田一郎「汀石竿談義」1975年文治堂)
最後に6代目東作。「和竿を一生ものとして使おうと思ったら、たまに火入れをした方がいいね。使い込んでいると、どうしても竹本来の素性が戻ったり、釣った時の癖で曲がりがでるんですよ。逆に使わないでしまいこんでおいても出ちゃいます。それをまた火に当てて矯め、直してやる。(中略)これから問題になるのは、というよりすでに起こっているのは、作った竿師が病気で仕事をやめたり亡くなることです」(松本三郎「竹、節ありて強し」2000年小学館)
私が所有している江戸和竿の竿師はだいたい鬼籍に入っている。自身の手によるものは当然、先代の作品であれば竿辰も竿富も嫌な顔をせずにメンテナンスや修理の依頼に応じてくれるだろう。しかしその他の竿師の和竿についてはどうすればよいのか。私はそのようなときに、稲荷町の東作に相談する。これまでもちょっとした修理などお願いしてきた。大変申し訳ないが、それらはすべて東作の竿ではなかった。東作には8代目東作を目指して精進されている東亮が控えている。店主である7代目東作松本耕平氏にいつも直接お話するが、仕事を依頼したあと、どういう仕組みと仕事の振り分けで修理とかメンテナンスをこなしてくれるのかわからない。双子のご子息ふたりが担当しているのか。あるいは影の東作ネットワークがまだ機能しているのか。ここに不安や不満があるわけでは全くない。総本家の血筋だから江戸和竿については何でも請け負うという責任を感じているのではないかと思う。釣師としては感謝あるのみである。

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