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私の家が「ゲストハウス」だった頃

  

今でも真偽が定かではないのだが、
海外の有名な大学には、ゲストハウスと言ったらいいのか、宿泊施設が併設されているのが当たり前だそうである。

私がその話を聞いたのは、あるヨーロッパの国からやってきた女性だった。

彼女は、日本をひとつの研究テーマに見定め、色々なフィールドワークをしているとのことだった。
そんな彼女が、日本で二番目に優秀だと海外でも名高い京都大学にも、ゲストハウスがあるに違いないと思い、「吉田寮」に足を踏み入れてきたのは、まだ寮が大学当局から訴訟をされる前、「コロナ」と聞けば、せいぜいのところビールのことくらいしか連想できなかった、
2016年だか2017年のことだったはずである。

 当時、寮の入り口で対応をした私は、ここはゲストハウスではないが宿泊は一応できるということを説明した。
彼女は「それはゲストハウスと同じじゃないか。それに何でこんなに古いのか、日本は先進国では?」と怪訝そうな顔をしていたが、
とりあえず宿を確保できて安堵したようだった。

そういう具合で、私がかつて住んでいた吉田寮というところは、「ゲストハウス」だと思われて多くの観光客が国内外から訪れる場所であった。

国内外から訪れる様々な旅行客と、時には真面目な話を、時にはふざけた話を、様々な話をした。旅人たちが古い寮を見て感嘆の声をあげて何日か過ごし、去って行く。

いい思い出ばかりではもちろんなく、我が物顔で寮生の共通部屋に居座り、色々な狼藉を働いて去って行く者もいた。
「開かれた空間」、「排除しない場所」などというのは、聞こえこそいいが、中に住んでいる者には気苦労も多い。
近年、ますます苛烈の度合いを強める監視システムの充実は、「自分は悪いことをしていないのだから、他の悪い奴らを見張ってくれ」という、多くの人々の、あけすけな欲望が剥き出しになっていることの証左だろう。

大学人をはじめとする多くの批判的知識人たちは、そういった傾向に警鐘を鳴らすが、彼らの住居は厳重なセキュリティがかけられ、財産はしっかりと保護されている筈である。

そういった「タテマエ」と「ホンネ」の違いを、鬼の首を取ったように冷笑主義者は暴露する。
当然、言われた側もそのままではないのだが、いかにも歯切れが悪く、自分達の言論と思想の違いをうまく説明できていないようにも思われる。

ゲストハウスは多くの人が入り乱れる公共空間でありながら、そこで一定期間の生活が営まれる私的空間の一面も持ち合わせる。
吉田寮はこの意味で、公的なものと私的なものの境界線が限りなく曖昧な場であった。

言うなれば、空間そのものがゲストハウス的なのである。

当然、寮生にはそれぞれの私室があるのだが、そこにしたって相部屋である(新型コロナ感染症を受けて方針は変わっている)。
寮とゲストハウスは、前者が寮生の家であるという点で大きな違いをもつが、似たような要素も持ち合わせているように感じられる。

私はゲストハウスに宿泊したことも幾度かあるが、そこではまさに生活空間を一時的に改変させる試みがなされていたと言っていいのではないか。
他者を自らの生活空間に招き入れると同時に、自分も他者への生活空間に入っていく。

私的領域が交わるとき、そこに生まれるのは新しい公共なのか、はたまた別の何かなのか。そういったスリリングであり楽しい経験ができる場、言葉を選ばず言えば、それは他者と隣り合うための訓練場でもあるのかもしれない。

政治学の世界では、公共空間というのはまさに政治が展開される場であり、熟議や熟慮、政治的な闘争や激しい討論が交わされるものだと理解される。
しかし、生活を少しの間だけでも共にすれば、そこに生まれるのはかしこまった態度のやりとりだけではない。

タバコを融通し合い、酒を飲み、時には歌う。そういったやり取りの中で生まれるのは、私が学んできた「公共空間」とはいささか異なるが、私的なものと公的なものが交わる時の感覚を、別の言葉で説明するのも難しい。

「他者とのかかわり」、「多様性」が称揚されるのが現代だが、本当の意味で=自らの生活空間の一部として、それを受け入れて暮らしていくことは、口で言うほどたやすいことではない。

最近の議論では、「支え合い」や「コモンズ」、「社会的共通資本」といった概念が(再び)注目され、市場システムに還元されないかたちで財を管理していく営為が注目を集めている。
しかし、こういった研究者が実例も踏まえて編み出していく華麗な言葉や概念の数々は、いかにも美しく妥当なように響く分、何だかそそるものを持ち合わせていない。

それはひょっとしたら、彼らが自分の私的領域を他者に明け渡し、なおかつ自分が他者の私的領域に踏み込んでいく経験がないからなのかもしれない。
市場メカニズムで管理することが不適切な財がたくさんあるという彼らの主張はもっともだとしても、ではなぜ市場メカニズムがここまで覇権的になったのかを彼らは説明していない。

大資本の陰謀であるとか、邪悪な政権による策動の結果であるとか、そういった側面は否定しない。
しかし、むしろ私たちは、市場がもつ利便性、他者と関わり合いにならないで済むその簡潔さに惹かれ、自主的に市場メカニズムに傾斜していった面があるのではないだろうか。

「コモンズ」や「社会的共通資本」が大事だとしても、それを運営して管理していくのは容易なことではなく、ひどく面倒なのだ。
煩わしい人間関係や、地域のしがらみ、うまくいかないことへの責任など、たくさんの難儀が降りかかってくる役目を、進んで負いたいという人はそうそういないだろう。

吉田寮でも、しばしば学生の住居であることを忘れ、なんでも好き勝手やっていいと思う人がいた。
私たちはその度に、その所業を改めさせないといけなかった。
何とも不毛なことである。
最初から全部締め出してしまえばいいのかもしれないが、たくさんの人が入り乱れることの楽しさが、私たちをその空間の維持に向かわせたのかもしれない。
いずれにせよ、膨大な「労力」があの空間の維持には費やされているのである。

京都大学に立派なゲストハウスがあると思い込んでやってきた彼女は、
最後は吉田寮が大好きになってくれたようである。

一緒にタバコを吸いながら、私は彼女に、
「いつかはここを去るんだけど、ちょっと寂しいかもしれない」
ということを言ったのだが、彼女は
「寂しかったら、また戻ってくればいい」
と笑って返してくれた。

かくいう私も、訴訟が終わらない中、退寮して今は別の地にいる。
私の帰れる場所は、これからどうなってしまうのだろう。

私の一部は、きっとまだ、あの空間に残されているような気がするのだが。

藪池広司
元寮生。現在大学講師。

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