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014 #100日後にムスリムになる僕

現代の日本人と宗教について(2)

いい宗教とわるい宗教問題があると僕は考えています。
いい宗教とわるい宗教の違いは何かというと本来は「いい教え」と「わるい教え」という二極化で判断されるべき問題なのですが、そういう本質的な思考がなくても区別化されている状況が日本にはあります。
端的にいうと「だまされていない」と「だまされている」という区別。それはもう他者判断による区別です。信じるとは本来、自己暗示の正当化なのにそれを他者が判断するというのは、傲慢以外の何者でもない。

僕は「自分がよければそれでいいじゃん。だって人間は本質的に孤独なのだから」という考えの人間でありまして、それでも共同体(社会)で生きているので「とはいえ他者への気配りも絶対必要であるべき」とも考えています。それは「自分で何を考えてもいいけれども公と私はわけて生きていくべき」だということで、逆をいえば「他人の心のことに口を出すべきではない」という意味でもあります。

なので誰がどの宗教でも「どうでもいいこと」ですし、僕がどんな宗教であろうと他人からすれば「どうでもいいこと」であることが理想だったりします。

とはいえ。
とはいえ、それが海外ではなかなかそうもいかないことがあります。

僕は旅行以外の長期滞在ではオーストラリアとタイでの生活経験があります。そこではやはり「お前の宗教はなんだ?」と聞かれることが多いということです。
前回、世界の86%は何かしらの信仰を持って生きていると書きました。オーストラリアはほとんどがキリスト教徒、タイはほとんどが仏教徒です。
どちらの国でも僕は「ブ、ブディストかなあ?」と答えているのですが、なぜかというと「無信仰・無神論者」というのはその質問をする人にとっては受けれ難い返答だからです。
「え?お前、信仰がないの?え?なんで?」というこの感覚がなかなか日本人には理解できない。
それは単純に日本人にとって生活と宗教が密接である必要がないからということです。

日本人もお盆にはお墓参りに行きますし、お食い初めとか七五三とかもやります、葬式はだいたいが仏式ですし、クリスマスではケーキを食べます。それでもやはり生活と宗教・信仰が密接とは言い難い。
では生活と信仰が密接とは何かといいますと、それは「宗教・信仰」によって「生活」が規制される場面と経験の有無です。

キリスト教徒の家では食事前に「お祈り」を捧げないと「ダメ」ですし、日曜礼拝にいかないと「ダメ」。仏教徒の家では朝に「お経」を上げないと「ダメ」などといった生活に「規制」があるのかないのか、それを幼少時(選択のできない時期)に強制的にそれを行なっていたかどうか、です。
そしてそれをもっと追求すると「自発的」にそれを行なっているかどうか、それが「苦になっていない」かどうかです。

まずほとんどの日本人が生活と宗教が密接になっていなくても生活できているのではないかと思います。それはそれで素晴らしいことだと僕は考えています。誰からも、何からも「規制」されない生活というのは何よりも素晴らしい。

でも僕は仏教徒であるという認識があるのにイスラームに改宗しようとしている。それは前回までにお話した「仏教では満足できなかったこと」や「キリスト教の聖典における改ざん疑惑」であったり、今まで僕が知っている宗教では得ることのできなかった何かがイスラームにはあるという確信からなのですが、そこで次回へのテーマにつながります。それは、宗教というのは「選ぶこと」なのか。ということです。

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