水無月一七日のゆうれい

 夕飯を食べていてふと、私はお箸の持ち方がきれいな人が好きだと思った。

 部屋は床に物が散乱してて足の踏み場がなくなるまで片付けないし、洗濯物だって畳むのが面倒で衣装ケースの上に積み重なっているし、ゴミ箱もゴミの日にはスカスカなのにそうでない日に一杯になってしまうから上から押しつぶして使っているくらいには大雑把な人間だけど、自分の中で適当にして良いところと悪いところの線引きがあって、適当にしてはいけない線の内側にある一つがお箸の持ち方。

 小さい頃、私はお箸がめちゃめちゃ上手だったらしい。初孫の私は祖父母とご飯を食べている時に必ず「あんたはちっちゃい頃から箸が上手でなあ〜」とお箸エピソードを聞かされる。自慢じゃないけど何度その話を聞いても飽きることはなくて、むしろ、ぐふふ、と自分の気持ちがくすぐったいような気持ちになる。だって3歳でうどんをすすれるって凄くない?正しい箸の持ち方で3歳児がうどんをすする。すごい話だよ本当に。祖父母の爺馬鹿・婆馬鹿なのかもしれないし、そういう三歳児はごまんといるのかもしれないけれど、私は自分がそうだったと言ってもらえることが凄く嬉しくて何度でもこの話を聞きたいと思う。

 とはいえ、このエピソードのあと、幼い私はすぐに箸の持ち方が悪くなる。理由は弟の真似をしたかったから。私の弟はお箸の持ち方がいわゆる握り箸で、今はもうきれいな持ち方になっているけど、矯正箸を使ってもなかなか治らない子だった。治らないとどうなるか。まずうちの母親のお叱りが飛んだ。それでも治らないから母親が諦めかけた頃に、父親が注意しだした。父親が言わなくなったらまた母親…というふうに弟がずっと両親に注意されているのが羨ましくて、真似をした。きれいだった持ち方はすぐに崩れて、上手く物をつかめなくて、治そうと思った時にはもう元の持ち方を覚えていなかった。

 どうして元に戻そうと思ったのかはほとんど覚えていないけど(弟の持ち方が治ってしまったとか、周りにとやかく言われるのが嫌になったとか、そういうのが理由だと思う)、きれいなお箸の持ち方に戻せた時に、とてもしっくり来たのは覚えている。お箸の持ち方って、これが一番きれいでつかうのにぴったりなんだなあ、という感動。それ以来、私はお箸の持ち方がきれいじゃないと嫌だし、他人もきれいな方が良いと思っている。

 だからといって無理強いしたいわけではなくて、私の友達にはお箸の持ち方がきれいじゃない子なんてたくさんいて、その子達ひとりひとりに治すように言ったことはない。私が言ったってきっと治らないし、各々しっくり来ているならそれで良いんじゃないかと思っている。持ち方がきれいな方が良いと思っているのは私で、そう考えているのは私の好みの話だから、誰かに強制しようという気はない(もちろんきれいだと嬉しいけど)。

 でもお箸について何も言わない代わりに、お皿に残った米粒や野菜屑をさらえない食べ方が本当に許せなくて、どれだけ仲の良い友達でもそんな食べ方をしていたら私はそっちを見ないし、なんならその子とは食事をしない。せいぜいカフェに行くくらい。

 箸をきれいに持つか、きれいにさらえるか。

 趣味の話なら何も思わないのに、食事になると相手に自分の思う「良さ」を押し付けようとしてしまうのは何故なんだろう。自分がどこまで価値観の共有を押し付けてしまっているのか、不安になってしまったけど、夕飯のゴーヤチャンプルーがそれをかき消すくらい苦くて、美味しいけど苦くて、この苦さは共有できるんじゃないかなと考えていた。


ゆうれいになりたいにんげん

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